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2013年8月 3日 (土)

《椿姫》

ヴェルディのオペラ《椿姫》を観た(アレーナ・ディ・ヴェローナ)。

指揮はアンドレア・バッティストーニ。演出・装置はウーゴ・デ・アナ。

まずは舞台装置に度肝を抜かれる。バッティストーニがFacebookで画像をあげていたので、ちらっとは観ていたのだが、画面が小さいためになんだか良く判らなかった。舞台の上に大きな大きな額縁があって、本来絵のある部分が傾斜していてそこに登場人物がいるわけだ。中央の額縁が最も大きく、左右にはそれよりは少し小さい額縁がある。ここでダンスをしたりしている。

面白いのは、この額縁は可動式になっていて、角度が変化するのである。一幕の終わりなど、額縁に座った(よりかかった)ヴィオレッタが、額縁がどんどん立ち上がって、ヴィオレッタは空中で歌うことになる。

《ラ・トラヴィアータ》の世界、その登場人物は、額縁の中から出て来た人たちという解釈ができるような仕組みだ。絵空事というが、まさに絵の中から(物語の中から)出て来た人たちというわけで、オペラの虚構性を前景化、すなわち、強調している。というと理屈っぽいのであるが、これほど巨大な額縁の上で人が動いていて、その額縁が動いたりすると、単純にスペクタクルとして面白いのである。

しかし、何より素晴らしかったのはアンドレア・バッティストーニの指揮だ。彼の指揮ぶりを見ていると、優れた指揮者は、手あかにまみれたようなあまりに頻繁に演奏される曲に、自らが感動する能力と、その感動を形にして伝える能力を兼ね備えているのだと思う。感動するというのは、言い換えれば、名曲が名曲となってしまった状態ではなく、あたかも曲が作られた時の新鮮さがどこにあったのかをつかみ取るということだ。

言い換えると、ヴィオレッタとアルフレードの間に、あるいは、ヴィオレッタとアルフレードの父ジェルモンの間のドラマが音楽としてどういう形で描かれているのか、それを単に感情表現というレベルでなく、音楽的な構造をもった音楽自身のドラマとしても描き出すことが、バッティストーニには出来るのだ。

彼が振ると、彼が歌詞(リブレット)をすべて覚えていることもあって、合唱の言葉、アクセントの置き方が明確で、響きが立ってくる。合唱はダラダラと歌うと歌詞が聞き取りにくく響きも平板になりかねないが、バッティストーニの演奏では決してそうならない。合唱指揮アルマンド・タッソの貢献も大きいのだろう。オーケストラも、たとえば不安をかき立てるところは、低音部のフレーズを音型を明確にして聞かせたり、不協和音は不協和音であることをはっきりさせて、音楽としての表情をきわだたせる。それによって、登場人物のメロディーがより三次元的な人人間として感情の動きがメロディーだけでなく伝わる。

つまり、歌手とオケの関係が、単にメロディーと伴奏ではなく、互いに様々な音色とリズムと言葉によって共同で「一場の絵」を描いているのだ。彼の手にかかると三拍子も出て来るたびごとに表情が変わる。

歌手たちも彼の意図を大部分は理解していたが、会場が大きいせいか、ここがクライマックスというところで、息切れしてしまうこともまれにはあった。バッティストーニの形成する音楽は息が長いので、こういう会場では要求として歌手にはきついかもしれない。

ヴィオレッタはラナ・コス。アルフレードはポレンザーニ。父ジェルモンはカピタヌッチ。この独特な舞台にみな適応し、熱唱だった。後半で、ヴィオレッタとアルフレードがパリに帰って賭けの場面は、非常に早いテンポであった(説得力はきわめて大きい)が、歌手もよくそのテンポで歌っていた。無論、フレーズのところどころで、リタルダンドするのではあるが。

全体として、非常にレベルが高く、ヴェルディ生誕200年にふさわしい《椿姫》の新たな魅力を引き出して感じさせてくれた公演であった。





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