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2013年8月28日 (水)

ベルリンフィル・コンサート

Simon Rattle, © Jim Rakete

サイモン・ラトル指揮のベルリンフィルハーモニーの演奏会を聴いた(ザルツブルク、祝祭大劇場)。

会場は満員。会場にはイタリアの政治評論家のジュリアーノ・フェッラーラやスカラ座総裁のリスナーの姿もあった。ジュリアーノ・フェッラーラはもともとは共産党系の活動家だったのだが、1990年代にベルルスコーニ支持に変貌をとげた人である。
最初の曲はシェーンベルクの《清められた夜》。通常の弦楽六重奏ではなく、弦楽合奏版である。
この曲はデーメルという詩人の詩《浄められた夜》につけられた曲だ。といっても歌があるわけではなく、いずれの版にせよ器楽曲なのであるが。詩の内容は、二人の恋人が夜、月夜の森を歩いている。女性がお腹の子はあなたの子ではないと告白する。男は僕らは冷たい海をさまよっているが、僕は君のぬくもりを感じている。その気持ちがお腹の子を浄化してくれる。僕の子として産んでほしい、二人は澄んだ月明かりの中を歩いて行く、というような内容である。
内容からしても、もともとの発想からも弦楽六重奏がふさわしいとは思う。また弦楽合奏にしても小編成ならばともかく、この日のベルリンフィルにはコントラバスだけで6人も7人もいる分厚い編成だった。音がピアニッシモになると、大編成がうそのようにかそけき音となりしかも産毛のような柔らかい音が聞こえて来るのはさすがであった。曲は後期ロマン派的な嫋々たるもので、詩の内容にふさわしい。後の12音技法のシェーンベルクとは様相がまったく異なる。
次はアルバン・ベルクのヴォツェックからの3曲で、調べてみると、ベルクがオペラ《ヴォツェック》を初演する前に、この3曲を演奏会形式で発表したらしい。ヴォツェックになると、後期ロマン派的な退廃的叙情性と、それだけではすまない世界との違和感、自分自身との違和感、不条理性が前景化される。それは音にも表れていて、オーケストラが一体となって動くのではなく、金管と弦が異なった調性やリズムで進行するぎくしゃくとした感覚が独特の表現力であり魅力となっている。ベルクは管弦楽法が精妙なため、つんざくような音がするときも、やかましいのではなく、むしろ官能的なテクスチャーを持っている。
歌はバーバラ・ハンニガン(ソプラノ)。表現力はあるが、線が細い。特にオーケストラがピットでなくて、壇上にあがっていると大音量なので、より大きな声量が欲しくなる箇所もあった。
休憩をはさんでストラビンスキーの《春の祭典》。もともとはバレエ音楽であるが、管弦楽曲としての演奏。珍しいことではない。今回の演奏を聞いておやっと思う箇所、きいたことのないフレーズやここはもう少し長かったのではと思う箇所があったので調べてみると、《春の祭典》には8つもヴァージョンがある。僕がその昔、繰り返し聞いたレコードはアンセルメ、スイス・ロマンド管弦楽団の演奏だったので、おそらく1923年版である。当日ラトルが演奏したのは1947年版とプログラムに記されているので、僕の記憶と違っている箇所があって当然であったのだ。
ラトルの指揮は、テンポは一定の枠に落とし込んでおいて、その中で音色の変化や強弱のダイナミクスをつけていくので、安心感が高い演奏であるし、はじけきらないと言えばはじけきらない演奏である。ベルリン・フィルの合奏能力が高いのは言うまでもないが、特に、無音の状態になる瞬間がぴたっと一致するのは驚異的だった。数日のうちにウィーン・フィルと両方を聞いたので違いもわかって面白かった。

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