《コシ・ファン・トゥッテ》
モーツァルトのオペラ《コシ・ファン・トゥッテ》を観た(ザルツブルク、モーツァルト劇場)。
指揮が変更になってエッシェンバッハ。ひさしぶりに聴くウィーン・フィルの響きは、モーツァルトの音楽に実によくあう。古楽器・ピリオド楽器による演奏もよいのだが、やはりウィーン・フィルの響きは別格である。無論、ウィーン・フィル自体にまったく変化がないというつもりはないが、弦楽器の柔らかさ、ホルンなどで古い楽器を使うことによる独特の響きは他に見いだし難い。
ストーリーはご存知の方も多いと思うが、フェッランド(マーティン・ミッテルツナー)とグリエルモ(ルカ・ピザローニ)が自分の婚約者の操の固いことを自慢しあっていると、中年のおじさんドン・アルフォンソ(ジェラルド・フィンリー)がからかう。2人は怒って、ドン・アルフォンソと賭けをする。2人は急に軍隊に招集されたことになり、別れの愁嘆場を演じる。その後、ドン・アルフォンソの指示にしたがって、トルコ人とおぼしき姿でやってきて(他人になりすまし)、相手方の婚約者をくどく。
無論、最初はまったく受け付けないのだが、ドン・アルフォンソは侍女デスピーナ(マルティーナ・ヤンコヴァ)の助力をえて、最初はドラベッラ(マリー・クロード・シャピュイ)ついでフィオルディリージ(マリン・ハルテリウス)が陥落する。二人のトルコ人と結婚式をあげようというところへ、元の婚約者が突然帰宅する。大騒ぎになるが、結局もとのさやに戻る。
最近はこのもとのさやに戻るというところをどう演じるかが変化してきていて、今回の上演でも元のさやに戻っていない、気持ちがすっきり戻っていないという演出である。おそらくは、トルコ人に扮した男たちが口説くときに散歩にいくのだが、そこでどこまでのことが起こったのか、またそれが彼らの心にどれほどの影響を及ぼすのかが演出の解釈の違いになってくるのだろう。下世話な話で恐縮だが、それぞれが別の相手と肉体関係までできてしまったとするなら、そう簡単にもとのさやに戻れるのだろうか、ということだ。
従来は、オペラ・ブッファとして上演されてきたのだが、最近は悲劇でも喜劇でもない問題劇として描かれているのだと思う。また、脚本(リブレット)自体にそういった読みを可能にする要素がある。単なるオペラ・ブッファをはみ出してしまった、逸脱してしまった劇と言えよう。
ただし、一方では、このオペラは、きわめて人工的なオペラであって、そもそもが男ども2人は舞台で、最初と最後を除けば、異国からやってきた別人を演じている。いわば芝居のなかで芝居をやるメタシアターなのである。また、状況も、いかにも作り事めいているし、1日のうちに女性2人ともが陥落してしまうというのも極端な話であろう。これは結局、恋愛をめぐる思考実験的なお遊びの劇とも言える。それを体現しているのはモーツァルトの音楽で、あくまで優雅で、美しいのであるが、他のダ・ポンテ3部作と比して、すこぶる二重唱が多い。極端に言ってしまえば、ドラベッラとフィオルディリージは2人で1セットの人格、フェッランドとグリエルモも2人で1セットの人格といった感じなのである。
後半になると、先に陥落するドラベッラとフィオルディリージの言動が別れてくるし、男たちも自分の婚約者が心変わりしたか、しなかったかでおおいに反応は別れてくる。
モーツァルトとダ・ポンテがこんな極端な話で描きだしてしまったものは、婚約や婚姻関係といった最も重大な人間関係も単なる約束事にもとづいているのだ、ということではないだろうか。
フランス革命が身分に関する約束事をひっくり返したように、《コシ・ファン・トゥッテ》は男女の関係に関する約束事をひっくり返す可能性を僕らにちらっと見せているのだ。だから、19世紀の観客はこのオペラを不道徳であるとして、長年上演しないでふたをしてしまったのだろう。
歌手は、ドン・アルフォンソのフィンリーが歌も演技も達者。デスピーナのヤンコヴァは演技が巧みで会場の拍手をさらっていたが、イタリア語の発音が不明瞭なところが時々あった。むろん、デゥピーナはナポリなまりのイタリア語を話すわけで聞き取りが困難になる要素はあるのだが。
フィオルディリージとドラベッラは決して強い声ではないが、モーツァルトの二重唱の心地よさを堪能させてくれた。
エッシェンバッハは第一幕はかなりのスピードできびきびとした棒であったが、1幕の終盤から通常のテンポとなり、二幕はほんの少しだれるところもあった。舞台はガラス張りの温室といった設定でそれなりに美しく、全体としてはモーツァルトの味わいに富んだ世界を十分堪能できた。
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