「来る日も来る日も」
パオロ・ヴィルズィ監督の「来る日も来る日も」を観た(イタリア映画祭、有楽町朝日ホール)。
原題は Tutti i santi giorni で santi (直訳では聖なるの意味)は、強調でつかわれ、Tutti i giorni (毎日、毎日)を強めているのだが、この映画では、主人公のグイドが、アントニアに今日は何の聖人の日で、その聖人はどの時代の人で、こういう理由で殉教したと説明する。つまり文字通り、すべての聖人の日になっているのだ。
タイトルが二重の意味をもつ言葉遊びである場合は多い。小説や詩でもそうだが、タイトルが二重の意味を持つのは、作品に描かれた出来事、あるいは作品を紡ぎ出す言葉自体、映画であればイメージ、映像自体も、二重、三重の意味を持ちうることを示唆しているだろう。
グイドの愛は、アントニアという奔放な女性に惹かれる世俗の愛なのだが、どこか、グイドには聖人的なところもある。グイドが聖人に詳しいのは、卒論で聖人論を書いたからなのだが。しかし彼は大学教授になる可能性に心動かされる様子もなく、ホテルの夜勤をしている(彼がそういう選択をしたのは、アントニアのためなのだということが示唆される)。
グイドは、アントニアが不妊治療の失敗のはてにやけになって家を飛び出した翌日に
男と寝てきたと告げたときにも激怒する様子は見せない。それをそういうタイプの男もいるのだという解釈もできるが、グイドは世俗の世界にいる聖人として描かれていると解釈することも出来るのかもしれない。とすれば、奔放なアントニアはマグダラのマリア的存在だろうか。
直接的な宗教への言及は、グイドが毎日告げるこの日はなんの聖人の日ということと、グイドの甥っ子の幼児洗礼の場面と、結婚式の場面だけであるのだが、もっとも世俗的なカップルであるアントニアとグイドもどこか聖なるものの印象を受ける映画であった。
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