《ランスへの旅》(ROF 2012)
イタリア人はランスをレムス(レイムス)と発音するようだが、ヨーロッパはお互いに地名はなまっているので、ランスはフランスなのでフランス語読みに近いランスにしておきます。
例年通り、ペーザロのマスタークラスに参加した若手を中心に出演歌手が決まる。演出も例年通りで、海辺のホテルらしきところ、浜辺にデッキチェアーがずらっと一列に並んでいる。出演者も一幕はみな似たりよったりのカジュアルな格好で出て来る。2幕になると正装をする。
今年は、日本人歌手は、加藤史幸(Fumiyuki Kato)さんが、アントニオとゼフィリーノの1人2役で出演している。加藤さんは、ペーザロのロッシーニ音楽院で研鑽をつんでいるバリトン歌手である。長年、ペーザロにお住まいの経験が活かされ、歌やレチタティーヴォがロッシーニの音楽が求めるスタイルにのっとっているのはもちろん、ジェスチャーや顔の表情も、他のヨーロッパ、ロシア系の出演歌手たちに入り交じって違和感がなかった。
指揮はピエロ・ロンバルディ。父イタリア人、母スペイン人で、音楽教育はスペインで受けている(これらの情報は、ROF の配布する出演者の経歴を紹介するパンフレット Gli Artisti 2012 に基づいている)。指揮は、リズムがやや重たい。ロッシーニのオーケストレーションはルスティオーニが言うように絶妙の調合、バランスからなっており、その均衡がくずれるとすぐに聞き手にわかってしまうのだ。
オーケストレーションが複雑で音が同時にたくさん鳴っているものは、逆に言えばごまかしがきく。食べ物でも、すしのようにシンプルなものは、一見単純そうに見えて(つまり要素としては酢飯、わさび、ネタしかないわけだ)、しかしそのバランスが寸分でも狂うと美味しいとは言えないし、日本人であれば、あるいは寿司を食べ慣れた人であれば、そのバランスを一瞬にして味わっているわけである。
アメリカなどの sushi は寿司と別ものと考えればともかく、酢飯でなかったりするので、寿司としては大きくバランスを欠いたものとなる。ロッシーニやモーツァルトのたとえばピアノ曲が演奏家にとって恐いのは、あまりにも楽曲のバランスの完成度が高いのでその均衡がとれていない時に聞き手の美意識を強く刺激するからだろう。
ロッシーニの場合には、いわゆるロッシーニクレッシェンドがあって、一方で力強い推進力があると同時に軽やかで、決して鈍重にならない。その点、リズムやアッチェレランド、テンポそしてアンサンブル、どれをとっても軽々と演奏しているように聴かせねばならないが、その実、それはとても困難なことなのであり、スタイルを習得、体得してしまわねばならないのだ。たぶん、身体的な反応が、少なくとも一時的にはイタリア人化してしまわなければならないだろう、という気さえする。
| 固定リンク
コメント