《アイーダ》(アレーナ・ディ・ヴェローナ)
そもそもアレーナ・ディ・ヴェローナは1913年にこのオペラで開幕したのであり、上演回数も他のオペラと較べて断然多い。そしてまた、アレーナという特別な舞台にぴったりはまるオペラだと言えよう。
演出は長らくゼッフィレッリのものが使われていたが、今日の舞台の演出はジャンフランコ・デ・ボジオのものだが、1913年の上演を再現することをめざしたものである。来年は新演出が登場する。
2013年の演目はすでに決まっており、《アイーダ》も当然のように含まれているのだが、2種類の上演があって、1つはラ・フーラ・デルス・バウスにより新演出で、もう1つは今回観たのと同じ1913年の再現を目指すもの(rievocazione)である。1913年当時の演出家、出演者は生存していないわけだが、演出を準備する段階でのスケッチ、写真などの資料をもとに再現を目指すものと思われる。
さて、今回の上演に話を戻そう。
指揮はマルコ・アルミリアート。《アイーダ》は上演回数が多いので、指揮者は3人いる。ダニエル・オレン、プラシド・ドミンゴ、マルコ・アルミリアートである。
ちなみにドミンゴは、来年のアレーナでは、《ナブッコ》のタイトルロールを歌うそうである。
配役は王がアンドレアス・マッコ。王女アムネリスがエカテリーナ・セメンチュク。彼女はメゾだが、身体は小柄なのだが身振りが舞台ばえし、歌も低い声がしっかりぼんと放出され決まる。囚われの身となっている(実は王女)アイーダはルクレシア・ガルシア。この人はいざとなると馬力はでるのだか小回りのきかない排気量の大きな自動車のような感じだった。発音がやや不明瞭なところがあり、ヌーミ・ピエタ(神々よ、お慈悲を)とかパトリア・ミア(わが祖国)といった決め台詞のここぞというメロディをぴしっと決めきれない。
アイーダの恋人ラダメスはヴァルテル・フラッカーロ。巨漢であった。ランフィスはマルコ・スポッティ。アイーダの父アモナズロがアンブロージョ・マエストリ。この人は大変口跡が良く、舞台がぐっとしまる。ヴェルディの場合、この単語、このフレーズに思い切り心情がこもっているというところがあって、それがロマンティシズムの一つの特徴をなしているわけだが、だから、歌詞というかリブレットはきわめて重要になってくるのだ。
全体としては、エキストラは大勢でてきて、ちゃんとした衣装をつけているし、装置も巨大で迫力満点、アイーダ・トランペットも左右に別れて鳴らすと、舞台が大きいのでステレオ効果が遺憾なく発揮される。
指揮のアルミリアートは、スマートなというか熱がこもりすぎない、そつない指揮であった。
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