《バビロニアのチーロ》(上演評)
ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバルで《バビロニアのチーロ》(Ciro in Babilonia)を観た。
ペーザロはロッシーニの生まれ故郷であり、彼はパリで亡くなった後、遺書により、自分の手元にあった楽譜をすべてペーザロ市に寄贈したのである。ペーザロには Fondazione Rossini (ロッシーニ財団)があって、ロッシーニの音楽についての学問的研究を自筆稿に基づいて行っている。改訂などの問題もふくめ、流通しているエディションだけでなく、様々な楽譜を照合して、クリティカル・エディションを作っているのである。昨年は、その成果が、《セビリアの理髪師》の新しいエディションという形で結実し、このエディションは校訂者ゼッダ(日本でも名高いロッシーニの世界的権威である)の指揮によって上演されたのでご存知の方も多いであろう。
今年は、《タンクレディ》の新たなクリティカル・エディションが完成し、それに基づいたコンサート形式の上演が行われる。
このようにペーザロのロッシーニをめぐる活動は、学術的な研究と、オペラの上演が有機的に結びついている。さらには、ペーザロにロッシーニ音楽院があって、歌手や音楽家たちを養成する機関もそろっている。
また、Fondazione は図書館を持っていて、研究者や学生の便宜をはかっているという具合である。ペーザロはいわばロッシーニのメッカなのである。
さて、《バビロニアのチーロ》の上演であるが、一種の劇中劇の構成になっている(演出はダヴィデ・リヴェルモア,Davide Livermore , トリノ生まれ)。最初、現代服の人たちが出てきておやっと思うのだが、彼らが無声映画を観る。そのスクリーンのなかで、古代バビロニアでのストーリー(前項のあらすじを参照してください)が展開するという仕組み。
最初は、手前の映画の観客と、無声映画の世界(最初はスクリーン上に映っているが、次には紗幕をへだてて、人物が動くーー当然ですよね。でないと、肝心の古代バビロニアの登場人物が歌えない)が截然とへだたっているのだが、あるところからは、互いに入り交じる。つまり、現代人と古代人が入り交じる不思議な舞台となる。
大道具は最小限で、たとえば、第二幕でチーロが地下牢に閉じ込められている場面も、周りの壁はスクリーンで映し出されたものであるが、その壁が形成される様がまるでテレビゲームのような形で、巨大な石が自動的に動きながら壁が観客の眼の前で出来上がって行く。こういう劇中劇的な手法は、知的な想像力を多いに刺激し、チーロたちの世界に対する異化効果を発揮するわけだが、それは同時に、彼らの世界にストレートに感情的に没入することをさまたげることにもなり、もろ刃の剣である。僕は、個人的には面白いと感じた。
というのも、チーロと妻アミーラが愛の場面を演じている時に、その奥のスクリーンには、無声映画風の二人の愛の場面が映し出されるなどの工夫が随所に凝らされていて、観ていてあきないのである。しかも、ドラマの展開にそって繰り出されるため、ストーリーがわかりにくかったり、うるさいと感じることはなかった。
歌手はタイトルロールのエヴァ・ポドレス(アルト)が圧巻。高い声から低い声まで自由自在に駆使し、しかも一音ごとに一オクターブ以上が交互に行き交うパッセージを、軽々と制覇していく。迫力あり、歌い回し良しで、当然ながら、一番の喝采をあびていた。妻アミーラを演じたジェシカ・プラットも良かった。彼女は華麗な衣装に身をつつみ、古代の美女になりきって、同時に無声映画時代のハリウッド美女をも演じていた。歌も演技も巧みであった。
衣装はジャンルーカ・ファラスキだが、白と黒を基調にして、しかも王は王らしく、妃は妃らしく、侍女は侍女らしさが一目でわかり、しかもエレガントで、素晴らしいものだった。バルダッサーレはマイケル・スピアーズ(スパイアーズ)。テノールで熱演。ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルはデビューである。
指揮はウィル・クラッチフィールド。丁寧な棒であるが、リズムがもっさりしていた。オペラ・セリアであってもロッシーニの場合、シャンペンの泡がはじけるような輝き、煌めき、疾走感が欲しい箇所が出てくる。そこをどう振るのかが彼の大きな課題であろう。
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