《ラ・トラヴィアータ》
マチェラータのオペラフェスティヴァルで《ラ・トラヴィアータ》を観た。
演奏開始前に会場が真っ暗になり、おやっと思うと、舞台面からむくむくと壁のような面が立ち上がる。しばらくして、ある角度がつくと、その面は鏡であったことがわかる。床には、大きな絵が描かれた絨毯のようなものがしかれていて、それが巨大な鏡にうつるのである。
場面が変わると、この絨毯が引かれて、下から別の絨毯があらわれる。その絨毯には別の絵が描かれているので、鏡には別の絵がうつり、舞台転換に相当することが起こる。
この演出は、La traviata degli specchi (鏡のトラヴィアータ)という名で良く知られているということがあとで調べて判った。マチェラータの音楽祭にずっと来ている方の話でも過去に数回それが上演されたとのこと。今回は、絨毯の絵が少し変わったようだ。
《ラ・トラヴィアータ》すなわち《椿姫》の主人公ヴィオレッタは、第一幕のパーティで、アルフレードに会うわけだが、ヴィオレッタは高級娼婦である。その場面では、巨大な女性の裸体が鏡に映し出され、ヴィオレッタのいる館が快楽を追求する場所であることが示される。
例によって、スフェリステリオは何十メートルもある巨大な壁面が観客席の前にたちはだかっていて、
その中央で舞台が繰り広げられるのだが、その壁面の左右にイタリア語字幕が出る。昨日のカルメンのようにフランス語で歌っていて、イタリア語字幕を追うのはかなりつらいことが判った。《椿姫》の場合は、歌手が歌う歌詞と、字幕は完全に一致するので、そういうストレスはない。おそらく、イタリア人にとってはイタリア語が母語であるから、《カルメン》での言語のずれも、われわれが日本語字幕をおうようなもので特にストレスにはならないであろうが。
第一幕でよく言われるのは、舞台に娼婦をあげたということがスキャンダラスだったということだが、それだけではない。ヴィオレッタがコロラトゥーラで高い声を転がしながら、私は性の快楽を追い求めるわ、と高らかに宣言しているのも、驚くべきことだ。
当時、ローマで上演しようとした際には、教皇庁(当時は、ローマからイタリア中部の相当をおおう教皇国家だった)から検閲が入り、歌詞をずたずたに変えられ、ヴェルディが激怒したエピソードが、無料配布のパンフレット(他に、有料のパンフレットもある)に紹介されていた。
《椿姫》に限らずあまりにも有名になって上演回数の多いレバートリー作品は、慣れ親しんでしまったあまり、かえってその作品が本来持っていた衝撃、革新性、挑発的なところが理解しにくくなっているのではないかと思った。今回の鏡の《ラ・トラヴィアータ》の演出では、第一幕の過激さが絨毯に描かれた絵画によって巧みに表象されていた。
ヴィオレッタはギリシア出身のミルト・パパタナジウ。眉目麗しく、好演であった。アルフレードはイヴァン・マグリ。かなりよいのだが、ソット・ヴォーチェを使いすぎるのが気になった。
パードレ・ジェルモン(パリ郊外のヴィオレッタとアルフレードの愛の巣にやってきて、ヴィオレッタにアルフレードと別れてくれというアルフレードの父。ブルジョワの勝手な理屈を振り回し、神まで持ち出す鼻持ちならない人物なのであるが、ヴェルディはこういうバリトンの悪役にいいアリアを書いている)はルカ・サルシ。立派な歌いぶりだったし、拍手も多かった。観客もオペラ好きの人が多いと見えて、単に出番の多さだけで拍手の量が決まるわけではない。
快楽の館でのパーティには踊りや合唱団もパーティの人物群として出てくるが、今回はそういった人たちの演技、表情がいきいきとして、セクシーかつチャーミングでおおいに楽しめた。
また、快楽の館から、逆説的な純愛に目覚めるヴィオレッタ、ブルジョワ・モラルをかざすアルフレードの父、ヴィオレッタの死と、舞台は様相をめまぐるしく変えるのだが、ヴェルディの音楽というものは、リブレットの言葉とともに、その変化をまさにドラマティックに表している。トレモロ一つで舞台の表情が変わる。また、後にジョルダーノが《アンドレア・シェニエ》の中でジェラールの「祖国の敵」で用いるようなオーケストラが短く奏する合間に、レチタティーヴォ・パルランテが挿入されていくという手法も、《ラ・トラヴィアータ》でジョルダーノほど派手にではないが、十分効果的に用いられている。
指揮はダニエーレ・ベラルディネッリ。丁寧だが遅めのテンポで、オーケストレーションのテクスチャーを丹念に描き出すタイプの指揮だった。
個人的には、《ラ・トラヴィアータ》の上演(CDではなく)で、もっとも納得のいく公演であった。
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