« 《アイーダ》(アレーナ・ディ・ヴェローナ) | トップページ | 《ブルスキーノ氏》(ROF) »

2012年8月13日 (月)

《マティルデ・ディ・シャブラン》

120809matilde_640x_2
ロッシーニのオペラ《マティルデ・ディ・シャブラン》を観た。ペーザロのアドリアティック・アレーナというやや郊外にある体育館のような建物である。会場まではシャトルバスが無料で提供される。体育館とはいえ、反響板などをうまく配してあり、音響的には満足のいく環境を提供している。

《マティルデ・ディ・シャブラン》は、テノールのフローレスがこの人ありと世に知られるきっかけとなった作品である。彼は最初はロッシーニ・オペラ・フェスティバルで端役があっただけだったのが、《マティルデ》のコッラディーノ役の歌手が降り、何人かが候補にあがったがうまくいかず、わずかな時間しか残されていない中でころがりこんできた大役であったが、それを見事にこなし世に出たのである。

それが1996年のことで、その8年後の2004年には再び《マティルデ》をロッシーニ・オペラ・フェスティバル(ROF)で歌い、さらに8年後の今年に再演となったわけである。

今回は指揮はミケーレ・マリオッティ。日本でも去年《清教徒》を振っている。33歳の若さだが、すでにボローニャ歌劇場の首席指揮者である。彼は、しっかりとオケをコントロールしているのだが、レガートな部分はあくまでエレガントで、一方すぱっと切るスタッカートの切れ味が小気味よい。さらに重要なのは、ロッシーニでは息の長い、それこそ15分もそれ以上も続く重唱、来んチェルタートなどがあるわけだが、それを少しも緊張感を緩めることなく最後まで、しかも音楽的な味わいを大切にしながら、持って行く術を心得ている。

無論、指揮者だけの手柄ではなく、オーケストラの技量の高さ、歌手たちのアンサンブル力の高さがロッシーニの音楽を光り輝かせていた。

《マティルデ・ディ・シャブラン》はセミ・セリエとも言うべきオペラで、シリアスな要素とコミカルな要素が入り交じっている。

ストーリーを簡単に紹介すると、コッラディーノ(フローレス)という暴君がいて、鉄の心を持っているといわれている。獰猛で、用もなしにこの町にやってきたら頭をかち割るなどと触れ書きを出している。そこへナポリから放浪の
詩人がやってくる。この詩人は明らかに《セビリアの理髪師》のフィガロに似ている。この詩人イシドーロを歌ったのはパオロ・ボルドーニャ(バリトン)で、闊達な芝居を見せてくれた。歌も良い。彼はあらたまった場を除いてはナポリ弁でしゃべる。せっかく字幕が出ているのだから、自分にもうちょっとナポリ弁が判ったら、と思わずにはいられなかった。会場でイタリア人が笑っていても、なぜ可笑しいのか判らない時がままあるのだ。無論、こういった場合、演技によってそれはかなり補われるのだが。

詩人イシドーロは医師アリプランド(ニコラ・アライモ)の取りなしもあって、死はまぬがれ牢屋にいれられる。

この後、コッラディーノは二人の人物と会見する。一人は戦い破れ虜囚となっているエドアルド(メゾソプラノ、アンナ・ゴリャチョヴァ)。彼は、コッラディーノと対面しても自分の敗北を認めようとしない。もう一人は、マティルデ・ディ・シャブランである。彼女の父が死の間際にコッラディーノに彼女を託したのだ。

ここからこのオペラの調子が次第にコミカルなものに変わる。マティルデは鉄の心を持つというコッラディーノの心をわたしの女の魅力で溶かしてみせようと意欲まんまんである。一方、コッラディーノには伯爵令嬢の婚約者がいて、この女性二人のライバル関係が面白おかしく描かれて行く。コッラディーノは、自分に対して平然とふるまうマティルデに惹かれていき、恋の病いに落ちる。このあたり、フローレスはコワモテから恋にへにゃへにゃとなる様子をコミカルに演じていて、しかも演じるのを楽しんでいる様子がありありとうかがえた。
マティルデはソプラノのオルガ・ペレチャツコ(ちなみに、8月末に、指揮者のマリオッティと結婚する)。アルコ伯爵令嬢はメゾ・ソプラノのキアラ・キアッリ。
 
そこへ戦いの報せ。エドアルドは父を想い涙にくれる。マティルデは、同情してコッラディーノにエドアルドの助命を求めるが、コッラディーノはかえって嫉妬心をかき抱くところで第一幕が終わる。

このオペラは、通常のオペラに較べて異様に第一幕が長い。第二幕の倍以上あるのだ。

第二幕は詩人イシドーロが、自分が素晴らしい戦争詩人だという詩をあれこれ構想しているところから始まる。彼はほら吹きでありもしない自分の武勲を誇ったりもする。自由になったエドアルドが戦場で父ライモンドと遭遇し、喜ぶ。そこへコッラディーノがやってきて、エドアルドが自由の身であることにショックをうけるが、エドアルドはマティルドのおかげで自由になれたという。実はこれが伯爵令嬢の仕掛けたわななのである。コッラディーノは怒り、マティルデに死刑を宣告する。

イシドーロがマティルデの死の模様を言葉を尽くして微にいり報告する。そこへエドアルドが来て、自分が解放されたのは実は伯爵令嬢の差し金だったと明かす。コッラディーノは激しい悔悟の念に襲われる。コッラディーノは自分も死のうとするが、そこへマティルデが登場。マティルデが死んだというのも、詩人イシドーロの作り話だったのだ。コッラディーノはマティルデの足下に身を投げ許しを請う。暖かい心を持ち、ライモンドと和解することを条件に、マティルデは許しを与え、イシドーロは女性は「勝利し、支配するために生まれてきた」と歌い、全員がそれに和して幕。

演奏は、実に息の長い重唱が、緊張が途切れることなく、音楽的に、うねるように続いて行くもので、しかも、フローレスだけが突出してしまうのではなく、アンサンブルとして見事な達成をなしていた。ROF ならではの、時間をかけたプロダクションだから到達可能な高みなのであると見た。すべての面で深い満足を与えてくれる上演であった。


|

« 《アイーダ》(アレーナ・ディ・ヴェローナ) | トップページ | 《ブルスキーノ氏》(ROF) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 《マティルデ・ディ・シャブラン》:

« 《アイーダ》(アレーナ・ディ・ヴェローナ) | トップページ | 《ブルスキーノ氏》(ROF) »