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2012年8月 7日 (火)

《ラ・ボエーム》

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マチェラータのスフェリステリオ野外劇場で『ラ・ボエーム』を観た。

演出によって登場人物たちは20世紀後半とおぼしき世界に生きている。ロドルフォやマルチェッロが住んでいる部屋にはヘンテコな自転車マシーンがあるし、第二幕で出かけるカフェ・モミュスはディスコ(クラブ)のような感じである。
 第三幕のアンフェール門の場面では、出入りをチェックする兵隊たちが妙にものものしい存在として描かれていたし、何より驚き、当惑したのは、最後にミミが死ぬ場面で、複数の看護師と医師が出てきて、死亡が確認されるとさっさと舞台から死体が運びだされ、ロドルフォが「ミミ!」と絶叫する時には、ミミの遺体はそこにはないのである。これはプッチーニのセンティメンタルな面を異化したり前景化したりする意図があると思われるが、その意図はまったく指揮やオーケストラとの連携を欠いていた。
 指揮者パオロ・アッリヴァベーニは、非常に遅いテンポで、嫋々たるプッチーニ節を繰り広げる。経歴を見ると海外が長く、海外で振るときはこういうくどくどと表情を拡大したほうが受けがよいのかもしれないが、セリフが判るイタリア人にとっては、テンポが一定以上遅くなるのは致命傷である。
 というのも、プッチーニはヴェリスモ一辺倒ではないのだが、ヴェリスモ(真実主義、フランスの自然主義に相当)の影響を非常に強く受けており、いわゆるレチタティーヴォとアリアの区別がない。だから歌うようにレチタティーヴォ的なところがあるところでは話すのとほぼ同じテンポで歌うと自然に聞こえるのである。あまり遅いと、回転を間違えたレコードのようで、不自然に聞こえる。イタリア語が理解できない人が対象であってもそれはよろしくないと思うのだが、イタリアでの上演ではなお一層いかがなものかと思う。
 そもそもプッチーニのオーケストレーションは過剰なほど表情づけがしてあるので、強調してくれなくていいよ、という気になる。
 しかも演出は、異化効果をねらっているのだから、そぐわない。
 ああいう演出を認めるのだったら、思いっきりセッコ(ドライ)な音楽をやってもらいたかった。プッチーニはどこまでいってもセッコにはならないかもしれないが。
 ミミはカルメン・ジャンナッタージオ。ロドルフォはフランチェスコ・メーリ。二人とも歌唱力も演技力もあるので、もう少しきびきびとして若さあふれるミミとロドルフォだったらと惜しまれる。
 マルチェッロはダミアーノ・サレルノ。ショナールはアンドレア・ポルタ。コッリーネはアンドレア・コンチェッティ。ムゼッタはセレーナ・ガンベローニ。
 演奏会場にはマエストロ・ゼッダとマリオッティ総裁(ペーザロ・ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルの)が来ていた。

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