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2012年5月 5日 (土)

《ジョルダーニ家の人々》

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ジャンルカ・マリア・タヴァレッリ監督の《ジョルダーニ家の人々》を観た(有楽町・朝日ホール)。

399分の長編で、午後1時から始まって、間に20分強の休憩をはさみ、終演は8時10分であった。

6時間39分の映画を退屈でなく見せるのは、すごいことだと思うが、実は脚本家は、《輝ける青春》(これも6時間くらいの長い映画だった)のサンドロ・ペトラッリャとステーファノ・ルッリ。ただし、《輝ける青春》が1960年代から2003年までを描いていたのに対し、こちらは現在のイタリアということは判るが、時間の幅は1、2年程度だ。

《輝ける青春》がそうであったように、テレビドラマの連続ものという感じである。話は続いて行くのだが、第一部から第四部に別れている。おのおのが100分くらいで、現在の映画では1本分の長さと言ってよいだろう。だから、1本の映画だが、4本分のボリュームを持っているのである。

6時間近い映画を観て思うのは、短編小説と長編小説では、描けることが違ってくるのと同様に、映画も器の大きさが違うと90分や100分の映画なら一筆書きになってしまうところを、じっくりと描きこめるのだという当然といえば当然のことである。

一人一人の登場人物も繰り返し出番があるので、多面的に描いたり、若者であれば、出来事を通じての成長/変化を描きこむことが可能となる。

たとえば、ニーノという次男の大学生は、映画の冒頭では、父の不倫を知って怒っているが、自分も大学の指導教員の妻と関係を持ってしまい、いくつかのドラマを経験する。その後で、遠ざけていた父と再会するのだが、彼の父への態度は、以前通りの部分を残しつつ、微妙に変化している。そういった微妙な変化を丁寧に描いていくのは、やはり長尺ものの醍醐味と言えよう。

これはテレビドラマならどれでも出来そうであるが、しかし実際には、そうでもない。それだけ中身を持った出来ごとを一人一人の登場人物を活かしながら描き分けるには脚本家・俳優の力量がものを言うのであり、誰にでも可能なことではないからだ。

移民に対して、みんなが「いい人」でうるわしいと言えばうるわしいのだが、こんな家族ばっかりなのかなあなどと思ってしまったりもしたが、やはり2時間未満の映画では味わえない充実した映画であった。

イタリア人は出入国管理法がありつつも、眼の前にいる難民に対してはまず人間として(共感をもって)振る舞いーーその結果、時に、法律がないがしろにされてしまうーーのだが、今回の映画祭では、精神科医が患者に対して、患者への共感を踏み出すような感情(つまり転移として知られるある種の恋愛感情)を抱いてしまう例が二つあった。当然カウンセラーは転移については学んでいるはずなのだが、それでもそういう感情を押し殺さない人物が出てくるーーつまり、職業倫理を結果的にはないがしろにしているーーのは、イタリア的なのかなとも思った。

《大陸》のなかでも、出入国管理法の必要性を説く登場人物に対して、昔かたぎの漁師が、自分たちは父や祖父から、海でおぼれているものがいたら何をおいても助けろと教わったと言うセリフがあった。頭が命じる法律や職業倫理ーーそしてそれは無意味なものではないと思う。しかし、ハートは違った方角を指し示す時、イタリア映画ではハートの言うことを聴く人物が出てくる。

こうした遵法精神の欠如が、イタリアの問題点でもあり、素晴らしさでもあり、それはコインの表裏のようなもので、無邪気に絶賛することも出来ないし、蛇蝎のごとく嫌ってしまってはイタリアを理解することは出来ないのだろう。

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