ゴッティ・テデスキ解任の理由
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エドゥワルド・デ・フィリッポ作の芝居《デ・プレトーレ・ヴィンチェンツォ》のDVD上映を観た(九段・イタリア文化会館)。
デ・フィリッポがこの作品を書いたのは1957年、初演は1962年だが、僕らが観たのは、1976年にRAI によって収録されたものである。
タイトルは、人名で、主人公の名前を姓名の順に言っている。舞台はナポリ。ヴィンチェンツォはお洒落には人一倍気をつかう伊達男で、ニヌッチャは彼に惚れてしまう。しかしヴィンチェンツォは泥棒をして暮らしている。ニヌッチャは酒瓶を洗って生計をたてる貧しく信心深く威勢のいい娘である。
泥棒家業は秘密にしているのだが、ニヌッチャと親密になりかけたところで警察に踏み込まれ、ばれてしまう。
そこからが、ナポリらしいというか、イタリアらしいところで、庶民の出のニヌッチャはとても信心深い。彼女、彼女の父、母はそれぞれにお願いする聖者がいて、彼らの生活は各聖人によって守られていると固く信じている。
刑務所から出てきたヴィンチェンツォにあなたも聖人に守ってもらったらということで、ヴィンチェンツォはサン・ジュゼッペ(聖ヨゼフーイエスの父、聖母マリアの夫)を選ぶ。
サン・ジュゼッペにロウソクや油をお供えして、今度は、盗む相手をちゃんと金持ちにしぼった上で家業にはげみ、うまくいく。しかし大金を狙ったところで、銃で撃たれる。
ここで前半が終わり休憩。
後半は、ヴィンチェンツォが白い服をきて、どうも天国らしきところに行く。門のところまでニヌッチャが付いてきてくれるが、ちゃんと入れるところまで見守ってはくれず帰っていってしまう。
ヴィンチェンツォは門番とかけあって、泥棒であったのにもかかわらず、自分はサン・ジュゼッペにいろんなお供えをしたのだからここに入れるはずだと門番にごねる。サン・ジュゼッペも折れて、では神に彼の機嫌が良いときに頼んでみようという。
ここが愉快なところだったが、神は、サン・ジュゼッペをしかりとばす。泥棒が天国にいられるなら地獄はいらないではないかと。すると、ジュゼッペは、では私はヴィンチェンツォとともにここから出て行きますという。神は、あとで後悔してもここは閉まったままだぞというが、ジュゼッペの決意は変わらない。すると、妻マリアは私は夫にしたがいますといってついていこうとする。すると、息子イエスも両親にしたがいますという。するとマリアの両親アンナとジョアッキーノも。。。とイエスの一族郎党が天国から出て行こうということになる。
さすがに神も考え直す。。。。
という話なのだが、実は、これが意識不明のヴィンチェンツォの見ている夢なのである。
ヴィンチェンツォは息絶えて、病院からニヌッチャが去って行く。
喜劇的な要素と、悲劇的な要素が入り交じった味わい深く、しかも後半には、シュールリアリスティックとも言える天国の場面があり、単なる世話物というのを越えた非常に面白いお芝居であった。
作者のエドゥアルド・デ・フィリッポは、タバコ屋の親父と、サン・ジュゼッペの二役。息子のルーカが主役を演じている。ニヌッチャはアンジェリカ・イッポーリト。
このDVDは書籍と一体で販売されている。
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MET のライブビューイングでマスネの《マノン》を観た(東銀座/東劇)。
ライブビューイングは、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の上演を、ハイヴィジョンで録画し、上映するもので、本来は、ライブの中継であるため、休憩時間には、主演歌手へのインタビューやカーテン裏の舞台転換の様子が映し出される。
マノンはネトレプコ。デ・グリューは、ベチャワ。ネトレプコは、ブーシェ的というかルノワール的というか豊満な身体からクリーミーでリッチな声を放つ。
というと、熟女的でマノンの若さがないかと思われるかもしれないがさにあらず。彼女は、顔の表情づくりが大変に巧みで、第一幕冒頭の、田舎からパリへ出てきた山出しの少女はぴったりな感じの役作りであった。必要に応じてあどけない表情や、機敏な動きができる人なので、歌手として声質が典型的なマノン役と比べると、豊かではあるが重く、コロラトゥーラで軽やかに声が転がらないといった面がなくはないのだが、画面で観ると、演技力、顔の表情などで、見せてしまう。
マスネの《マノン》は、同じくマスネの《タイス》と比べると、台本にドラマティックな山場がいくつもあり、音楽もそれにあわせて躍動して、聞いていて退屈しない。
プッチーニにも《マノンレスコー》という作品があるが、原作はプレヴォーの小説『マノン・レスコー』で同じである。ただし、リブレットにする段階で異なったストーリーとなっている。最大の違いは、マスネではマノンが賭博場でつかまって、アメリカ送りとなるのだが、その前にフランスの港で息絶えるということだ。
それに対して、プッチーニの方は、プッチーニがなかなかリブレッティスタと調整がうまくいかず最終的に5人ものリブレッティスタが関わることになったのだが、マノンのアメリカ行きにデ・グリューがその義務はないのに自らの意志でついていって、アメリカでも騒ぎをおこしてアメリカの荒野でマノンはデ・グリューにみとられて死ぬという点である。
その他、マスネの場合、マノンの従兄が出てくるが、プッチーニではマノンの兄となっている。
こういった細部はプッチーニの方が原作に忠実である。しかしながら、リブレットを一つの作品としてとらえた場合には、脚本としてのまとまり、流れの良さという点では、マスネ作品のリブレットの方がすぐれていると思う。オペラ全体の評価となると、またこれに様々な要素が加わってくるので、一言では言えない。
ともあれ、ストーリーといい、音楽といいマスネの《マノン》は見応え、聞きごたえのあるオペラであり、今回の上演は、やや抽象度の高い舞台装置、あっさりとした衣装ではあるが、レベルの高いもので大いに楽しめた。
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北部同盟の元ボスのウンベルト・ボッシの息子レンツォ・ボッシの大学卒業証書に疑惑がもたれている(5月5日、Corriere della Sera).
レンツォは、アルバニアのティラーナの《Kristal》という私立大学を卒業したことになっている。
しかし、調査によるとレンツォは一度もティラーナに足を踏みいれていないという。しかし、卒業したことにもとづいて2010年9月29日以来、レンツォは dottore (大学卒業者への称号)と呼ばれている。
《kristal》大学は、卒業証書が本物であることを発表した。大学によると、レンツォは2007/2008年にアルバニアの法律にもとづいて入学した。しかし、それはレンツォが高校卒業試験 Maturita に受かる一年前のことなのである。
しかし、レンツォはどうやってアルバニア語で試験を受けたのか?その大学の教師によると、ほとんどの事業はアルバニア語で通訳なしで行われるという。
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タヴィアーニ兄弟監督が5つのダヴィッド賞を授賞した(5月5日、Corriere della Sera).
ベルリン映画祭の銀熊賞に続いて両監督の《チェーザレは死なねばならぬ》が授賞した。
ナンニ・モレッティやパオロ・ソッレンティーノ、マルコ・トゥリオ・ジョルダーナやエマヌエーレ・クリアレーゼは賞を逃した。
オズペテク監督も8部門で候補にあがっていたが、賞を逃した。
リリアーナ・カヴァーニ監督は、キャリアに対する賞をもらった。
主演男優賞は、《ローマ法王の休日》(Habemus Papam)のミシェル・ピッコリ。
主演女優賞は、中国人のチャオ・タオ。《シュンリーと詩人》での演技に対してである。
《シャッラ/いいから!》も2つの賞を授賞した。初監督賞他である。
映画評論家のメレゲッティは、コメディーが一つも授賞していないことを残念に思うと述べ、将来に期待している。
(ここから管理人の感想です:日本でのイタリア映画祭2012のおかげで、タヴィアーニ監督の作は別として、主要な受賞作は観ることができた。映画祭に関し、コメディーが少ないという評価もあるが、ダヴィッド賞の中身を観ると、そもそも本国での優れた作品がシリアスなものに集中していると考えてよいのだろう。われわれも、メレゲッティ同様、すぐれたコメディ作品が将来出ることを期待したい。今年の映画祭の中では《バッグにはクリプトナイト》、《何もかも音楽のせい》、《楽園の中へ》、《ジャンニと彼をめぐる女たち》がそれなりに笑える映画であった。個人的には、シリアスな映画、セミ・シリアス(セミセリア)な映画、コミカルな映画が同程度に分散していると好ましいと思うのだが、その一方で、やはり優れた映画が優先という規準も理解できる気がします。)
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ジャンルカ・マリア・タヴァレッリ監督の《ジョルダーニ家の人々》を観た(有楽町・朝日ホール)。
399分の長編で、午後1時から始まって、間に20分強の休憩をはさみ、終演は8時10分であった。
6時間39分の映画を退屈でなく見せるのは、すごいことだと思うが、実は脚本家は、《輝ける青春》(これも6時間くらいの長い映画だった)のサンドロ・ペトラッリャとステーファノ・ルッリ。ただし、《輝ける青春》が1960年代から2003年までを描いていたのに対し、こちらは現在のイタリアということは判るが、時間の幅は1、2年程度だ。
《輝ける青春》がそうであったように、テレビドラマの連続ものという感じである。話は続いて行くのだが、第一部から第四部に別れている。おのおのが100分くらいで、現在の映画では1本分の長さと言ってよいだろう。だから、1本の映画だが、4本分のボリュームを持っているのである。
6時間近い映画を観て思うのは、短編小説と長編小説では、描けることが違ってくるのと同様に、映画も器の大きさが違うと90分や100分の映画なら一筆書きになってしまうところを、じっくりと描きこめるのだという当然といえば当然のことである。
一人一人の登場人物も繰り返し出番があるので、多面的に描いたり、若者であれば、出来事を通じての成長/変化を描きこむことが可能となる。
たとえば、ニーノという次男の大学生は、映画の冒頭では、父の不倫を知って怒っているが、自分も大学の指導教員の妻と関係を持ってしまい、いくつかのドラマを経験する。その後で、遠ざけていた父と再会するのだが、彼の父への態度は、以前通りの部分を残しつつ、微妙に変化している。そういった微妙な変化を丁寧に描いていくのは、やはり長尺ものの醍醐味と言えよう。
これはテレビドラマならどれでも出来そうであるが、しかし実際には、そうでもない。それだけ中身を持った出来ごとを一人一人の登場人物を活かしながら描き分けるには脚本家・俳優の力量がものを言うのであり、誰にでも可能なことではないからだ。
移民に対して、みんなが「いい人」でうるわしいと言えばうるわしいのだが、こんな家族ばっかりなのかなあなどと思ってしまったりもしたが、やはり2時間未満の映画では味わえない充実した映画であった。
イタリア人は出入国管理法がありつつも、眼の前にいる難民に対してはまず人間として(共感をもって)振る舞いーーその結果、時に、法律がないがしろにされてしまうーーのだが、今回の映画祭では、精神科医が患者に対して、患者への共感を踏み出すような感情(つまり転移として知られるある種の恋愛感情)を抱いてしまう例が二つあった。当然カウンセラーは転移については学んでいるはずなのだが、それでもそういう感情を押し殺さない人物が出てくるーーつまり、職業倫理を結果的にはないがしろにしているーーのは、イタリア的なのかなとも思った。
《大陸》のなかでも、出入国管理法の必要性を説く登場人物に対して、昔かたぎの漁師が、自分たちは父や祖父から、海でおぼれているものがいたら何をおいても助けろと教わったと言うセリフがあった。頭が命じる法律や職業倫理ーーそしてそれは無意味なものではないと思う。しかし、ハートは違った方角を指し示す時、イタリア映画ではハートの言うことを聴く人物が出てくる。
こうした遵法精神の欠如が、イタリアの問題点でもあり、素晴らしさでもあり、それはコインの表裏のようなもので、無邪気に絶賛することも出来ないし、蛇蝎のごとく嫌ってしまってはイタリアを理解することは出来ないのだろう。
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リッキー・トニャッツィ監督の《何もかも音楽のせい》を観た(有楽町・朝日ホール)。
リッキー・トニャッツィはウーゴ・トニャッツィの子息。監督も中心人物ナッポを演じている。主人公ジュゼッペ(マルコ・メッセーリ)は、30年の勤めを終え、年金生活に入る。
'Sono andato in pensione'(僕は年金生活にはいった)というと妻は、‘Sono andata al parrucchiere oggi' (私は今日、美容院に行ったわ)とこたえる。andare が掛け言葉になっているのだが、字幕だと可笑しさが伝わらない。こういった地口を用いたやりとりは翻訳がむつかしいところだ。
しかし、この会話は夫婦の間を象徴している。妻は、エホバの証人に入会し、その活動に邁進し、家で集会を開いており、娘もそのメンバーとなっている。
ジュゼッペの母は、カトリックでパードレ・ピオをうやまっている。ジュゼッペはそのどちらでもなく、自分に残ったフェーデは指のところにしかない、というのだが、これも駄洒落なのだ。フェーデ(fede)とは、信仰といういう意味と結婚指輪という意味があるからだ。つまり、信仰は持ってないけど、結婚指輪はしているよ、ということになるのだが、こう言ってしまうと可笑しくない。
こうして意識のすれ違った夫婦であるジュゼッペは、悪友ナッポ(若いブルガリア人の愛人に夢中)に誘われて合唱団の活動を見に行く。そこで、ソプラノ独唱を歌うエリザ(ステファニア・サンドレッリ)を見て、一目惚れ。。。
エリザには、病気の夫と二人の息子がいる。
中年男の恋のちょっとほろ苦い物語であるが、愉快なコメディーでもある。
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ダニエーレ・ガッリャノーネ監督の《錆び》を観た(有楽町・朝日ホール)。
1970年代後半のトリノの郊外が舞台(実際のロケは別の場所)。団地があって、そのはずれに子供たちの遊ぶ空き地がある。そこに廃棄されたものを用いて子供たちは「城」を作っている。
そこを通りかかる医師。彼はよそから赴任してきたのだが、怪しげな雰囲気を漂わせている。
その怪しさを醸し出すのがオペラの音楽である。彼がメルセデスを自動洗車機で洗う時に流れるのは、グルックの《オルフェオとエウリディーチェ》であり、彼が原っぱでつぶやくように歌うのは、ドニゼッティの《愛の妙薬》の中のアリア「人知れぬ涙」である。
僕はこれほどまでに、オペラのアリアや楽曲が効果的にネガティヴに用いられたのを知らない。この子供たちに対する態度の怪しい医師の中にはオペラの音楽が詰まっており、つまりそれは現実を遊離した夢の世界(それは美しい夢かもしれないが悪夢かもしれない)に生きていることを示唆しているのだろう。オペラの持つ魅力、魔力をネガティヴに拡大するとそういうことになる。
映画では、子供たちと医師の間でおきた事件とその後の子供たち(すでに大人として生活している)が交互に並行して描かれる。
怖い映画だった。
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ルーチョ・ベッレグリーニ監督の《気楽な人生》を観た(有楽町・朝日ホール)。
これも以前に飛行機で観た。今回の方が細部がよくわかった。なぜだろうと考えて、二回目だからだろうと漠然と考えていたのだが、ふと思い出した。飛行機で観た時には、日本語字幕ではなかったのだ。英語字幕あるいは字幕なしだった。
また、当然のことだが、飛行機の座席の背中の小さな液晶画面と映画館や朝日ホールのスクリーンは物理的な次元が違う。この映画は、ほとんどの場面の舞台がアフリカで、アフリカの大地にやってくる飛行機、舗装もされていない飛行場やそこから主人公の暮らす村への移動の場面などは、大画面ならではの空気感や広大さを感じる。
この映画はかなりひねった三角関係の物語。二人の男性医師が友人。そのうちの一人と女性はしたのだが、もう一人はもとカレなのだ。
元カレのルーカを演じるのがステファノ・アコルシ。結婚した敏腕医師マリオを演じるのがピエルフランチェスコ・ファヴィーノ、その妻ジネーヴラを演じるのがヴィットリア・プッチーニ。別の監督の映画であるが《もう一度キスを》のキャストと三人ともかぶってくる。
ルーカは、二人の結婚から眼をそむけるかのようにケニアに来て、疎末な医療設備の中で現地の人々の治療にあたっている。そこへマリオが人生を考えたいといってやってくるが、実はわけありで、彼の勤務する病院に何か重大な問題があるらしく、姿をくらます必要があってやってきたのだ。
それをまったく知らされていなかったジネーヴラは、事情を知って激怒し、ケニアにやってくる。ジネーヴラの中には、そしてルーカの胸の内にも互いを思う気持があり。。。
終わりまでいくつかのどんでん返しがあった。
芸達者な役者と、ケニアが単に絵葉書以上の意味を持っていて、楽しめる映画であった。
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