電気代、再び値上げ
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イヴァン・コトロネオ監督の《バッグにはクリプトナイト》を観た(有楽町・朝日ホール)。
クリプトナイトは、スーパーマンに詳しい人には説明不要であろうが、スーパーマンの唯一の弱点となる鉱物で、この物質の近くに長時間いるとスーパーマンは死んでしまう。
この映画は、イヴァン・コトロネオの初監督作品だが、彼は脚本家としてはすでに《あしたのパスタはアルデンテ》や《ミラノ、愛に生きる》また作家としても活躍中である。
この映画は1973年のナポリが舞台で、ある近眼の少年(クラスに一人だけなのでいじめの対象となっている)の視点から父母の不仲、というより父の浮気を母が知り、母が寝込んでしまったり、そのため、母の兄弟に預けられるのだが、それが子供をあやしげなところに連れて行ったりする。
少年には自分がスーパーマンだと信じ込んでいる年長の従兄がいて、バスに轢かれるという不慮の事故で亡くなってしまうのだが、死後も少年のところにはスーパーマンの姿で現れる。
1970年代の風俗が、服装や音楽にもこだわって作り込まれており、また、学校や祖父母の倫理観と、少年の叔父叔母(当時の若者)の倫理観のずれや軋轢が面白おかしく描かれていて、愉快な映画であった。
コトロネオ監督の舞台挨拶および質疑応答があった。
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アリーチェ・ロルヴァケル監督の《天空のからだ》を観た(有楽町/朝日ホール)。
アリーチェ・ロルヴァケルは、《ボローニャの夕暮れ》などに出演していたアルバ・ロルヴァケルの妹。
この映画は、普通の日本人にとっては註釈の必要な映画かもしれない。というのも、思春期の少女がカトリック教会で堅信式を受ける準備をしている場面が中心となっているからだ。
堅信式(堅信礼)は cresima といい、カトリック教徒の秘蹟の一つである。生まれてしばらくすると、洗礼があり、小学校低学年で初聖体(prima comunione) があって、その次が堅信式で、キリスト教徒としての信仰を確認する儀式である。
堅信式の準備のため、子供たちは教会に通っていて(それは初聖体でも同じ)、カテキスタ(教義問答を教える人、シスターの場合もあるし、出家はしていない在俗のカテキスタもいる)から教義や儀式を、クイズや歌を用いて教わっている。
主人公はスイスで10年間を過ごして、母娘(主人公と姉)で母の実家レッジョ・カラーブリアに帰ってくる。父は出てこないので、別居したか、離婚したことが暗示されている。主人公の少女は、このレッジョ・カラーブリアの少年少女と異なり、お祈りの文句を暗唱できない。つまり、信仰にも南北の温度差があるのだ。カトリックの儀式、あるいは南イタリアのコミュニティに違和感をもつ少女の眼から堅信式の準備や、神父と地元の人々の関係(政治を含む)が描かれている。
大変興味深い映画だった。
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ミサの言葉が変わる(4月25日、Corriere della Sera)
変わるのは、聖体の秘跡(Eucarestia, 最後の晩餐のパンとぶどう酒がキリストの身体と血であるとする)に関する文言。
最後の晩餐でイエスは、パンをちぎって「これは私の身体である」と言い、つぎにワイングラスをとる。ミサの場合、司祭は「これは私の血である...罪人がゆるさるようあなた方のためまたすべての人のために注がれる」(Questo e' il mio sangue...versato per voi e per tutti in remessione dei peccati)という。しかし福音書には‘per tutti' (すべての人のために)とは書かれていないのである。
そこで、教皇は、イエスの言葉通り‘per molti'(多くの人のために)に戻したいと考えたのである。
このフレーズは、マルコ福音書(14、24)マタイ福音書(26、28)にはあるが、ヨハネ、ルカ福音書にはない。
多くの人のために、という表現は、実は1969年の典礼改革以前は、用いられていた。'Per tutti' という表現は、パオロ6世によって導入されたものである。
第二ヴァティカン公会議以前は、‘pro multis' であった。
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東京初台の新国立劇場でモーツァルト作曲、ダ・ポンテ脚本のオペラ《ドン・ジョヴァンニ》を観た(4月19日)
指揮は、エンリケ・マッツォーラ。演出、グリシャ・アサガロフ。
ドン・ジョヴァンニはマリウシュ・クヴィエチェン。この日は、声もよく出ていて絶好調だった。
騎士長(コメンダトーレ)は、妻屋秀和。騎士長は、出番が少ないためかなかなか優れた歌手が歌ってくれないのだが、今日の妻屋は素晴らしかった。低音が朗々と響くし、発音もきれい。
レポレッロの平野和。声も立派だが、発音がとても良い。カタログの歌の前のレチタティーヴォであれだけ台詞がはっきり聞き取れたのは本当にめずらしい。日本人歌手でこれだけのレポレッロが歌える人が出てきたかと思うと感慨深いものがある。
ドンナ・アンナのアガ・ミコライは、歌、演技にバランスがとれていた。ドン・オッターヴィオ役は、これも折角素晴らしいアリアがあるのに、なかなか歌い手にめぐまれない。今日のダニール・シュトーダは、むらがあって、良い時と、もうちょっとここで声が出てほしいという時とが交錯していた。
ドンナ・エルヴィーラのニコル・キャベルは、声は出るのだが、発音が不明瞭。歌詞がほとんど聞き取れない。マゼットの久保和範とツェルリーナの九嶋香奈枝の掛け合いは、適切なコミックレリーフとなっていた。ツェルリーナは、マッツォーラの指揮も、ハーディング以降のモーツァルト演奏であるから、テンポが早いのだが、きびきびとした歌を聞かせてくれた。
演出も冒頭はヴェネツィアを思わせる舞台で、後半では森が出てきたりするが、比較的オーソドックスで好感がもてた。
指揮は、基本的にきびきびと早めのテンポなのだが、ところどころでぐっとテンポをおとし、長めのリタルダンドのような感じになる。
全体としては、非常に満足度の高い上演であった。4階席で観たが音はとても良い。東フィルの演奏も言う事なし。
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