《ドン・ジョヴァンニ》
驚いたのは、舞台で本物の火が大々的に使われていること。所変われば品変わるで、日本では消防法の関係で、電気仕掛けの火(に似せた灯り)がほとんどだろう。
今回の《ドン・ジョヴァンニ》では、マゼッタが仲間をひきつれてドン・ジョヴァンニをつかまえにくる場面でみなが松明を持っているというところと、あとはドン・ジョヴァンニの地獄落ちの場面である。こちらは派手な仕掛けで、地獄の業火として舞台のあちこちで燃えさかるのだが、もう一つある。
そもそも石像が出てくる前に、舞台の奥に等身大よりはるかな指がブランコのように揺らめいている。その指とおぼしき巨大な指が炎につつまれて舞台の前方にいきなり空中ブランコのように現れるのである。度肝を抜かれる演出である。
ドン・ジョヴァンニが地獄に落ちたあと、薄い幕がおりて、残りの登場人物の重唱となる。ここでも、ドンナ・アンナがわたしは気持ちを鎮めるのに1年かかるとか、ドンナ・エルビーラが修道院へ行くとか、マゼッタとツェルリーナが友人とご飯を食べにいくとかいうたびに笑いが起こる。最後に悪いやつは地獄へ落ちるのだと皆で歌って終わると、薄い幕があがって裸のドン・ジョヴァンニが裸の女性を抱いている場面が一瞬見えて、幕。これも笑いが起こって、のち拍手喝采。
この見事な演出は、フランチェスカ・ザンベッロ。
指揮はコンスタンティノス・カリディス。ハーディング以降のモーツァルトはこうなるのだなという速めのテンポ。いや速めどころか、部分的には、目の回るようなテンポで、歌手の言葉が聞き取れないし、歌手をまったく楽器のように扱っているようで、おやと思うところもあった。しかし、なかばからは、案外、常識的なテンポでしみじみと聴かせる場面も増えて、ややスタイルとしては混成的・折衷的な感じである。
タイトルロールはアーウィン・シュロット。立派な体格で、レポレッロのエスポジトとの掛け合いも見事だったし、ドン・ジョヴァンニが女性論を展開するところでは、舞台のそでに行って、桟敷席の女性に向かって語りかけるのが様になっていた。
今回の演出でよくわからないのはドン・オッターヴィオの扱い。この人は誠実だけど、まあそれだけで、最後のドンナ・アンナのせりふからも熱烈に愛されているわけではないことが丸見えな、気の毒ながらブッフォな人物であるが、今回は彼のアリアをしみじみとした感じで聴かせるため、そのへんの人物像がどうなっているかやや曖昧だった(もっともこの点は、演出に責任があるのか、指揮あるいは歌手がそう歌わせたかった・歌いたかったのかは不明だが)。
歌手はバランス良く、歌もよく、演技もさまになっていた。ドンナ・アンナはカルメラ・エミージョで彼女のロイヤル・オペラ・デビュー。
騎士長はラインハルト・ハーゲン。ドン・オッターヴィオはパヴォル・ブレズリク。ドンナ・エルビーラはルクサンドラ・ドノセ。庶民のカップルは、ツェルリーナがケイト・リンゼイ。マゼットがマシュー・ローズ。
リブレット(脚本)の段階で考えると、《フィガロの結婚》とくらべ、《ドン・ジョヴァンニ》は小さいエピソードがつなぎ合わされている。フィガロの方が近代的戯曲を原作として持っているのだから当たり前と言えば当たり前のことなのだが、にもかかわらず、演出の工夫により退屈することはなかった。
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