《フィガロの結婚》
ロイヤル・オペラの公演でモーツアルト作曲、ダ・ポンテ台本の《フィガロの結婚》を観た(2月28日)。
指揮はパッパーノ。演出は、デイヴィッド・マクヴィカー。時代は1830年代へとずらしているが、衣装は時代衣装なので違和感はない。館は、田舎の別荘とのこと。
伯爵夫人のレイチェル・ウィリス=ソレンセンは、ロイヤル・オペラ・デビュー。背が高く、堂々とした体躯で、同じく背が高い伯爵のルーカス・ミーチャムと釣り合いがとれていた。出だしは、緊張のせいかやや固かったのだが、観客の拍手を何度か受け、後半では、声を張り上げ喝采をあびていた。
今回は、指揮のパッパーノの方針か、アリアで1番、2番とあると、1番はストレートに楽譜のメロディーを歌い(CDなどで聞き慣れたメロディーである)、2番では即興風に装飾音をつけたり、アレンジをこらしていた。即興風と書いたのは、毎回その装飾音やアレンジを変えているのか、あるいはその即興風のアレンジが即興風ではあるが毎回同一のものであるかは、一回聞いただけでは確認できないからだ。こういう1番と2番の分け方は巧みで効果的だ。アリア1つで2度楽しめるからである。聞き慣れたメロディーを味わい、今度はどうアレンジするのかという歌手の技巧への期待がふくらむ。
《ルサルカ》でも感じたことだが、ここのオケは状況説明的な音楽の表情づけがうまい。音楽的な鋭利さやコントラストの美の刺激よりも、演劇的な筋の一貫性、わかりやすさが優先される。それが習い性となっている感じである。イギリスの風土的なものなのだろう。
演出も、何が何だかわからないというような場面は一つもない。《フィガロ》では、その部屋に居てはいけないはずのケルビーノが居て、そこへ伯爵がやってきてケルビーノが隠れ、そこへドン・バジリオがやってきて伯爵も隠れるといったドタバタが何度かあるが、どの歌手も演劇的にもうまく演じていた。
お客も、よく笑う。第三幕で、フィガロが実はマルチェッリーナとバルトロの子とわかる場面、次々と Sua madre! といい、Sua padre といって登場人物が仰天する場面では、会場中に笑いが起こった。
第一幕で、マルチェッリーナとスザンナが(その時点ではフィガロをめぐるライバル)丁々発止と相手をやりこめようとする二重唱でもスザンナが eta' (年)とマルチェッリーナが年齢が高いとやりこめるところで大きな笑いが起こった。もちろん、その反応に何の問題があるわけでもない。
こういう場面に対するモーツァルトの音楽は、シンプルでかつ最高にエレガントで、かつウィットに富んでいる。
モーツァルトの重唱、あるいは二重唱、三重唱、四重唱と連なっていくグランド・フィナーレはものすごい力技であるのに、すらすらと、楽しく、諧謔をまじえて進んでいく。音楽的表情の豊かさ、旋律が流麗なだけでなく、ここぞという時に心に響く低音がオケから繰り出される。
ストーリーも愉快で軽妙で、しかも愛についてふと考えさせられ、なおかつ階級対立というようなことも頭をかすめる(演出によってはそれが前面に出る)が、モーツァルトの音楽を堪能すると、ちょうどヴェルディの悪役、敵役のバリトンにも高貴なメロディが割り振られているように、伯爵も単に権力を振り回す貴族(たしかにそういう面はあって、それがフィガロたちの智慧と策略によってコテンパンにやっつけられるわけだが)、もう一方で、一人のあわれむべき人間、男にも見えてくる。モーツァルトの愛の射程は、長く深いと感じた一夜だった。
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