« ポンペイの赤は、黄色だった? | トップページ | 高齢すぎる両親? »

2011年9月25日 (日)

《エルナーニ》

2011070100000010pia0000view
ボローニャ歌劇場来日公演の《エルナーニ》(ヴェルディ作曲)を観た(上野・文化会館)。

個人的には《エルナーニ》を生で観るのははじめてで、期待と不安が入り交じる気持ちで行ったが、上演が始まるなり、不安は吹き飛んだ。パルンボの指揮は、ヴェルディの様式を踏まえつつ、感情が盛り上がるところでは、クレッシェンドとアッチェレランドをかけていくという長い間、生では聞くことができなかった
もので、これこそヴェルディの台本・音楽の内容にふさわしいという高揚感を音で構築していた。

20代のバッティストーニといい、30代のマリオッティ、40代のパルンボといい、カラヤンの悪しき影響から脱した指揮者が出てきたことは本当に喜ばしい。カラヤン自身は若い時の演奏はそうではないのだが、晩年になるとオケを美音で鳴らすことに注力しており、スコアの縦のラインはぴっしり揃うのだが、前へ進む推進力に欠けるところがあった。カラヤンはドイツ系の指揮者でしかも器楽曲のレパートリーも広いのでそれでもよいのだが、良くも悪くも影響力が大きく、その亜流が次々に出てくることに数十年辟易していたのである。

イタリアのロッシーニやベルカント・オペラやヴェルディで、抒情的な部分では縦がそろって美しく響くことがあってもよいが、ズンチャカチャッチャとリズムを刻むところは、勢いの方が大事に決まっているではないか。パート間がそろわずとも、加速すること自体が情念の燃えさかる様を表現する時には重要なのだ。ためしに、ユーチューブで清教徒の第3幕の「彼女は私に裏切られたと思った」(credeasi misera) を何人かのテノールの演奏で聞いてみるとよい。高いレがでているかファ(私はDとかFという音の呼び方より、イタリア式のドレミファを採用しています)が出ているかだけが問題ではないのだ。そのほとんどの伴奏は、恋愛が成就した高揚感をまったく表現できていないではないか。お通夜か、屠殺場につれられていく羊(歌では仔牛ですが。。。)のドナの伴奏のようではないか。今回のマリオッティは、そこが様式的に盛り上がるもので、まことに目出度かった。

エルナーニの演奏もパルンボの指揮は実に納得のいくものだった。歌手はそれぞれ、健闘していた。デオドッシュウは、やや不調のようであった。そのため、四人の主要人物のうち男性が3人なわけだが、いっそう男声中心のオペラという性格が、結果的に、浮き彫りになっていた。

カーテンコールは通常にはないもので、ガンバレ日本の垂れ幕が出たほか、《ナブッコ》の「行け、我想いよ、黄金の翼にのって」がアンコール!として歌われた。オペラでのアンコール演奏、しかも他曲の合唱曲というのは意表をついていたが、満場の感動と拍手を呼び起こした。さらに、舞台上に、オーケストラ団員が全員登って拍手喝采を受けたのも異例中の異例のことだが、今回の上演は指揮・オーケストラが実に充実しており、様式表現上も画期的だったことを思えば、実に適切な措置であり、観客も惜しみない拍手をオーケストラ団員にも送っていた。


|

« ポンペイの赤は、黄色だった? | トップページ | 高齢すぎる両親? »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/144339/52831999

この記事へのトラックバック一覧です: 《エルナーニ》:

« ポンペイの赤は、黄色だった? | トップページ | 高齢すぎる両親? »