ヴァティカンと国家(3)
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フェッリーニの映画《甘い生活》の女優アニタ・エクバーグが80歳をむかえた(9月27日、Corriere della Sera).
エクバーグは1931年9月29日生まれ。1956−59年イギリスの俳優Anthony Steel と、1963年ー75年はアメリカ俳優 Rik Van Nutter と結婚していた。子供はいない。
現在は、ローマの病院で長期療養病棟にいる。
エクバーグによれば《甘い生活》は「たいした映画ではないわ。あの馬鹿げたシーンで有名なのよ。私とマルチェッロ(マストロヤンニ)がいて(トレビの泉のシーン)。私はとてもきれいだったわ」。
「ジャンニ・アニェッリとは秘密の関係を数年間持っていたが、下品なジャーナリストがよく考えないで暴き立ててしまったのよ」
ディーノ・リージはしつこくせまったが、何もなかったという。
フランク・シナトラも彼女と結婚したがったが、彼女は気に入らなかった。
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アメリカの格付け会社S&Pは、イタリアの7銀行の格下げまたは評価の下方修正を明らかにした(9月22日、Corriere della Sera).
イタリア国債の格下げにつづく動き。格下げされたのは、Intesa Sanpaolo 銀行、Mediobanca, Fidomestic, Banca Imi, Biis, Cassa di Risparmio in Bologna とBnl の諸銀行である。
negative outlook とされたのは、Fideuram, Agos-Ducato, Credito Sportivo, Cr Parma e Piacenza, Unicredit など。
こうした評価の下げが金利などに影響を及ぼす可能性がある。
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ボローニャ歌劇場来日公演の《エルナーニ》(ヴェルディ作曲)を観た(上野・文化会館)。
個人的には《エルナーニ》を生で観るのははじめてで、期待と不安が入り交じる気持ちで行ったが、上演が始まるなり、不安は吹き飛んだ。パルンボの指揮は、ヴェルディの様式を踏まえつつ、感情が盛り上がるところでは、クレッシェンドとアッチェレランドをかけていくという長い間、生では聞くことができなかった
もので、これこそヴェルディの台本・音楽の内容にふさわしいという高揚感を音で構築していた。
20代のバッティストーニといい、30代のマリオッティ、40代のパルンボといい、カラヤンの悪しき影響から脱した指揮者が出てきたことは本当に喜ばしい。カラヤン自身は若い時の演奏はそうではないのだが、晩年になるとオケを美音で鳴らすことに注力しており、スコアの縦のラインはぴっしり揃うのだが、前へ進む推進力に欠けるところがあった。カラヤンはドイツ系の指揮者でしかも器楽曲のレパートリーも広いのでそれでもよいのだが、良くも悪くも影響力が大きく、その亜流が次々に出てくることに数十年辟易していたのである。
イタリアのロッシーニやベルカント・オペラやヴェルディで、抒情的な部分では縦がそろって美しく響くことがあってもよいが、ズンチャカチャッチャとリズムを刻むところは、勢いの方が大事に決まっているではないか。パート間がそろわずとも、加速すること自体が情念の燃えさかる様を表現する時には重要なのだ。ためしに、ユーチューブで清教徒の第3幕の「彼女は私に裏切られたと思った」(credeasi misera) を何人かのテノールの演奏で聞いてみるとよい。高いレがでているかファ(私はDとかFという音の呼び方より、イタリア式のドレミファを採用しています)が出ているかだけが問題ではないのだ。そのほとんどの伴奏は、恋愛が成就した高揚感をまったく表現できていないではないか。お通夜か、屠殺場につれられていく羊(歌では仔牛ですが。。。)のドナの伴奏のようではないか。今回のマリオッティは、そこが様式的に盛り上がるもので、まことに目出度かった。
エルナーニの演奏もパルンボの指揮は実に納得のいくものだった。歌手はそれぞれ、健闘していた。デオドッシュウは、やや不調のようであった。そのため、四人の主要人物のうち男性が3人なわけだが、いっそう男声中心のオペラという性格が、結果的に、浮き彫りになっていた。
カーテンコールは通常にはないもので、ガンバレ日本の垂れ幕が出たほか、《ナブッコ》の「行け、我想いよ、黄金の翼にのって」がアンコール!として歌われた。オペラでのアンコール演奏、しかも他曲の合唱曲というのは意表をついていたが、満場の感動と拍手を呼び起こした。さらに、舞台上に、オーケストラ団員が全員登って拍手喝采を受けたのも異例中の異例のことだが、今回の上演は指揮・オーケストラが実に充実しており、様式表現上も画期的だったことを思えば、実に適切な措置であり、観客も惜しみない拍手をオーケストラ団員にも送っていた。
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ボローニャ歌劇場の来日公演《清教徒》(ベルリーニ作曲)を観た(東京文化会館)。
僕が観たのは水曜日と土曜日。今回の《清教徒》はテノールのフローレスが呼び物で、それを目当てに切符を買った人も多いはず。僕もそうだ。水曜日の代役はセルソ・アルベロ。土曜日は、シラグーザだった。
水曜日は台風直撃で、東急線などが止まり、来られなかった人も多いようで、会場は空席が目立った。開演は30分遅らせ7時からだったが、それでも遅れてきた人も多かった。
《清教徒》を生で観るのは藤原歌劇団で観て以来なので20年ほど経過している。あらためて、よく出来た曲だと感心。バリトンのアリアのコーダなど、ヴェルディがすっかりまねているし、男性の二重唱(バスとバリトン)もいかにここから多くをヴェルディが吸収したかを思わずにはいられない。
逆にベルリーニはロッシーニのオペラ・セリアからよく学んでいる。バスとバリトンの二重唱で、同じメロディーを二人が繰り返す構成などそっくりであるし、オーケストレーションもあちこちで似た響きが聞かれる。だからといって、ベッリーニもヴェルディも、ベッリーニらしさ、ヴェルディらしさ、それぞれの個性はあふれるほどに持っているわけで、他者から学ぶことでそれが損なわれるようなものではないのだ。そこにオリジナリティーと個性の複雑な関係があるし、また、ロッシーニからベッリーニ(およびドニゼッティ)、ヴェルディへ脈々と受け継がれていくイタリア・オペラの流れも見えてくる。
指揮のミケーレ・マリオッティは30代の若さであるが、実に見事に振る。決して強引ではなく、歌手にたっぷりと歌わせたいところは歌わせ、曲の終わりでさっとアッチェレランドをかけ引き締めいくのは、マチェラータで聞いた20代の若手指揮者アンドレア・バッティストーニと共通している。フレージングにしても、なめらかにレガートで歌わせるところ、スタッカートぎみにリズムを躍動的に刻んでいくところ、力強くオケを鳴らすところと切り替えが一瞬で、しかもしなやかなのである。マリオッティといい、バッティストーニといい、若手の非常に優秀なオペラ指揮者の出現は大変嬉しいし、高く評価したい。(ちなみに、バッティストーニは来年、来日して二期会で《ナブッコ》を振る予定)。
歌手では21日(水曜日)は、エルヴィーラ役のデジレ・ランカトーレが大健闘。彼女の強みはコロラトゥーラであるが、演技も所作が様式にはまっていて、観ていて気持ちがよい。ベッリーニのベルカント・オペラというきわめて様式的な音楽に整合的な演技なのである。声質に関しては、高音部と低音部で音色が変化するが、慣れてしまうとそれも彼女の個性かと思う。技巧的には安心して聞いていられる。
テノールのセルソ・アルベロはアルトゥーロというエルヴィーラの恋人役なのだが、演技、歌ともにやや表情が硬かった。最高音は立派に出ていた。いきなりフローレスの代役ということでやむを得ないだろう。土曜日のアントニーノ・シラグーザは、歌い回しは実に巧み、表情づけも文句なし。観客期待?の最高音は、やや詰まって苦しそうだったが、音ははずれずひっくりかえらなかっただけでも良しとすべきだろう。
エルヴィーラの父ヴァルトンは森雅史。風采も堂々としており、声も良く、まわりのイタリア人と違和感なく立派な歌だった。
エルヴィーラの伯父ジョルジョはニコラ・ウリヴィエーリは姿も良く、声も朗々と響き、フレージングもうまい。しみじみと聞かせるところは聞かせて、低音部では一番聞かせていた。
アルトゥーロの恋敵リッカルド役のルカ・サルシは、水曜日のほうが良かった。この人、声は大きく、なかなか立派な声。いま少し器用に表情を使い分けてくれればと思うのだが。
全体としては、清教徒カルテットと呼ばれる主要な4人の歌手の力量が相対的にそろっていて、しかも指揮、オケがきびきびとしていてまったくだれるところない演奏で非常に満足がいった。
フジテレビが終演後、観客が花束を投げるのを制していたのはいかがと思う。ヨーロッパやアメリカの劇場では良くみられることであり、むしろ歌手への最高のオマージュなのだ。録音や撮影の規制とは、区別してもらいたいと思う。
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