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2011年8月 7日 (日)

«リゴレット»

Jordirancatore2_2 «リゴレット»をスフェリステーリオで再び観た。

今回は、舞台に向かって右側から観たのだが、舞台が異なって見える。一番大きな違いは、スフェリステーリオの舞台は、左右にとても長いのだが、真ん中の部分に家の装置がある。あるときは、ドゥーカの宮殿で、その装置が回転すると裏側はジルダが住む家といった具合だ。

しかし、左右は何もない空間が拡がっている。真正面に近いところで観ていると、歌手は当然ながら舞台装置(家、宮殿)の前で歌っているのだが、斜め方向からみると、歌手の顔は、暗闇のなかにスポットライトを受けた形で浮かび上がる。この構図を演出家がどれほど意識していたのかは不明だが、結果として、リゴレットの孤独が浮き彫りになるのだ。漆黒の闇のなかでぽつんと一人で歌う孤独な男。

また今回気がついたのは、刺客スパラフチーレの妹マッダレーナが積極的に演技をしていることだった。今回の«リゴレット»では時代衣装のためマッダレーナもすその長いドレスを着ている。しかし、ところどころでぱっと裾をまくって脚を見せるのである。それによって、この劇を初めて見た人にも彼女が貴婦人ではなく、身体を売る女性であることが表象されている。

マッダレーナの熱演によって気がついたことがもう一つある。ジルダは、自らの命を犠牲にして、公爵を救うわけだが、よく観るとマッダレーナも兄のスパラフチーレに対し、あの男(公爵)はアポロに似ているし、20スクーディのために殺してしまうのはもったいないと言って反対する。それを観ているジルダは、当然、対抗心を感じるはずだ。これまでジルダの自己犠牲とばかり思い込んでいたが、そしてたしかにそういう面があるのだが、それと同時にジルダのマッダレーナに張り合う気持ちも描きこまれていることに今回気がついた。演劇として、その両面があったほうが、豊かであることは言うまでもあるいまい。

夏の音楽祭は、年季の入ったオペラファンもいれば、観光客ではじめて«リゴレット»を観るという人もいる。マッシモ・ガスパロンの演出は、奇を衒うのではなく、こうした細かいが適切な配慮によって、劇の構造を明確に伝える技にたけたものだった。

リゴレットの孤独ということを指摘したが、舞台上の動きとしては、宮廷人たち(コーラス)とリゴレットの対立は、身体的な動きとしても明瞭であったし、また指揮および合唱指揮の手柄もあって、合唱の言葉がはっきり聞き取れた。vendetta (復讐だ)と大勢で迫る不気味さ。孤立するリゴレット。しかもそこで、指揮はリズムをくっきりと刻むので、緊張の中での胸の高鳴りが手に取るように伝わってくる。

指揮は、合唱ではリズムをくっきり刻んでいる(三拍子や三連音符をはずむリズムで演奏するのは効果的)が、ジルダのソロなどではたっぷりと歌わせ、しかしアリアやデュエットの終結部ではさっとアッチェレランドをかけて曲全体の表情をひき締まったものにしていた。ゆったりと歌わせる部分と緊張感をもってたたみかけるところの対比、構成が巧みである。

たとえばランカトーレのジルダが「天の母をおもって」(la su in cielo) と思いのたけたっぷりにゆっくり歌わせ、そのあとのリゴレットはぐいぐいと引っ張っていくといった具合。

別項でも書いたが、スフェリステーリオ・オペラ・フェスティヴァルは来年からの芸術監督が未定である。また、マチェラータだけの話ではないが、イタリア政府は大緊縮財政策をこれから数年にわたって実施する。こうした方針が文化予算にも波及することは、残念ながら疑いない。

スフェリステーリオに18年も通っているという日本人ご夫妻からうかがったところでは、数年前から舞台装置はかなり簡素化されているという。このユニークな場所でのレベルの高い上演が来年からも堅持されることを祈らずにはいられない状況である。

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