«絹のはしご»その2
2度観て気がついたこともあるので記す。序曲の間、舞台の上では人が行き来して、部屋を組み立てていく。ベッドやテーブルや便器をテープで区切られた空間に配置していく(壁はない)のだが、主人公のジュリアとその秘密の夫ドルヴィルも、荷物のように運ばれてきて、序曲の間はじっと動かないのだ。
ジュリアの従妹ルチッラも出てきてからまるでロボットのような動きをする。これは、このお芝居全体が人形によって演じられる劇のようにも受け取れる枠組みを提供している。
もっと大きく言えば、オペラは観客が一夜の夢を観にくるところだということを別の形で示しているとも言えよう。
また、ロッシーニのオーケストレーションの冴えも素晴らしい。後半に弦楽器をわざとこすれるような音にする箇所(場面の異化効果を申し分なく高めている)、また、ストーリーの終結部はかなり無理やりブランザックとジュリアの従妹が結ばれることになるのだがそこではギャグのように調子はずれの音や、へんてこりんな転調が聞こえてくる。当然、ロッシーニのジョークなわけで、ブッファならではの脱線なのだが、聞きようによっては現代音楽風にきこえないこともないところが面白い。
歌手としは、召使いで狂言回し役、ジェルマーノを演じたパオロ・ボルドーニャが素晴らしかった。声が響くし、口跡が明晰で歌であれレチタティーヴォであり聞きとりやすい。しかも、ここがブッファでは重要なところだが、音色を使いわけられるのである。
ジェルマーノは召使いなので、ご主人様にはまじめな口調だが、独り言の時にはとぼけた口調があっていい、というかむしろ必要なわけである。ボルドーニャはとぼけた声音を時たま絶妙のタイミングで入れ、会場を笑わせていた。
ブッファの醍醐味を味あわせてくれたのであるが、実は、ヴェルディのシリアスなオペラでも音色の使いわけが効果的なことはある。«仮面舞踏会»のレナートが妻アメリアに対して彼女の不貞を信じ込んで「立て」からはじまってeri tu と歌うときと、アメリアと幸せだった甘美な時を思い出して quando Amelia と歌うときでは音色が変わっていいはずだ。オーケストレーションも後者ではハープが出てきて、目の前の現実ではなくて回想の中での甘美さを強調している。こうした場面、音楽の表情にあわせて声の表情、音色が変わる、変えることは言うはやさしく、行うは難しで、たいていの歌手は大きな声と小さな声あるいはsotto voce は使いわけるが、音色は変わらない、変えないのである。僕がここで言っているのは、高音から低音まで均一な音色で歌うという基本的なテクニックとは別の話である。
主役のHila Baggio はそつなくこなしてはいるのだが、声が響かない。ブランザックのシモーネ・アルベルギーニはかなり声はあり、もう一味工夫、うまみが出てくればと思わせる人だった。
とても楽しいお芝居であり音楽で、パルコでたまたま隣にすわったイタリア人のお嬢さんは何度も声をあげて笑っていた。観客は全体としては年配の人が多いのだが、こうした若い観客が育つ可能性も感じた一夜だった。
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