«リゴレット»(スフェリステリオ・オペラ・フェスティヴァル)
マチェラータのスフェリステーリオ野外劇場で«リゴレット»を観た。
スフェリステーリオは、1829年に球戯場として作られた。最初にオペラ上演に用いられたのは1920年の«アイーダ»である。
劇場の形がオリジナルで、楕円形を真っ二つにして、その直線部分にそって舞台がある。半円形をつぶしたような形の平土間と桟敷および最上階の立ち見席がある。
野外なので、雨天の時は上演がなくなったり、途中で中断したりする。
舞台からの観客までの距離が近いので、ヴェローナよりは音響的にはずっとよく響く。
今回の上演は、リゴレットがマントヴァ公爵がイスマエル・ホルディ、リゴレットがジョヴァンニ・メオーニ、ジルダがデジレ・ランカトーレ。スパラフチーレがアルベルト・ロータ(モンテローネとの一人二役)、マッダレーナがティツィアーナ・カッラーロ(チェプラーノ公爵夫人との二役)。
指揮がアンドレア・バッティストーニ。1987年生まれなので、24歳。指揮は情熱を込める時には猛烈な勢いで両手が動き、なおかつ髪が振り乱れる。指揮を観ていると彼がどういう音楽を求めているのか、手に取るようにわかる指揮である。合唱が出てくるときに、リズムが沈まず、単調にならず、はずむように生き生きと合唱に歌わせる(合唱指揮がいるにしても)。
リゴレットは、メオーニは抒情をたたえて歌っていたが、このオペラはヴェルディのすさまじい情念がほとばしる曲で、単に愛情だけでなく、復讐や呪いが舞台にでてくるまがまがしいオペラでもある。ジルダの犠牲も、相思相愛の犠牲ではなくて、公爵はマッダレーナにうつつを抜かしているわけで、後味は悪い話である。
しかしながら、そうした復讐やバランスを欠いた自己犠牲にもかかわらず、そうした不条理を音楽が雄弁に描きだしていき、理性で統御したり理解しきれない嵐に観客も巻き込まれていく。
ランカトーレのジルダは、高音がややきつそうだったが、好演。この人、2007年に日本で観た時よりいくぶんふっくらとしたが、ジルダにふさわしい無垢な感じが存在感として出せるのである。彼女は中音域が豊かに響くので、そろそろレパートリーの替え時なのかもしれない。あるいは、一時的なのどの調子で高音が苦しかったのだろうか。
スフェリステーリオの舞台は大変に横長で、奥行はそれほどでもないので、通常の劇場と較べると、集団の扱いに注意を要するわけだが、今回の«リゴレット»はうまく舞台を使っていた。
リゴレットの音楽の持っている力をあらためて感じた。復讐とか呪いといった言葉の喚起するまがまがしい呪力を表現するデモーニッシュな音楽と、父娘の間の情愛と、どちらもあますところなく描いていくヴェルディの腕のたしかさにはあらためて驚嘆のほかはない。
公演は夜9時に始まり、休憩2回をはさんで、終演はほぼ12時であった。マチェラータの町は静かで、帰り道に不安を感じることは特になかった。12時すぎだとまだ開いているバールもあって、人通りがそれなりにあるのだ。
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