フィアットとスズキ
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詩人のジョヴァンニ・ジュディチェが亡くなった(5月25日、Corriere della Sera).
ジュディチェは1924年ポルトヴェネレ近郊のレグラツィエで生まれた。3歳で母と死別。
再婚した父とともにローマに移る。親の希望で医学部へ進むが、すぐに文学への情熱がまさり、その後、反ファシズムのコミュニストの活動に参加するようになる。
1956年までは、USIS(United States Information Service)のローマ支所で働いた。
最初の詩集 Fiori d'improvviso (突然の花)は自費出版で、1953年に出版された。詩人サーバは手紙でコメントをくれた。
その後、イヴレアのオリヴェッティで働き、同僚に経済学者のフランコ・モミリアーノ、社会学者のルチャーノ・ガッリーノやロベルト・グイドゥッチ、詩人のフランコ・フォルティーニがいた。並行してジャーナリズムの仕事で、コリエーレ紙やウニタ紙に執筆するようになる。
ジュディチェがニューヨークの9.11でツインタワービルが崩壊し、多くの消防士が犠牲になったとき、9月16日にコッリエーレ紙に寄せた詩をのせる。
Ai pompieri di New York
Bambini in trecento son morti
Bambini che prima di ieri
Erano giovani e forti
A loro nei vostri pensieri
Tenetevi stretti un minuto
Quando giocate ai pompieri
Il vostro gentile saluto
ニューヨーク
300人の子供が死んだ
昨日以前は、子供たちは
若く、元気だった
消防士ごっこをするときには
一分間しっかりと
彼らを想い
やさしい挨拶を送ろう
(以下、管理人の註。一行は9音節である。1行目と3行目の morti とforti が韻を踏み、2行目のieri が次の連のpensieri , pompieri と韻を踏んでいる。これは一行の音節は異なるが韻の踏み方は、ダンテの『神曲』と同じである。5行目のminuto は最終行のsaluto と韻を踏んでいる。消防士ごっこというと子供だけを呼びかけの対象としているように聞こえるが、pompieri と近いpompino はオーラルセックスという意味があり、大人にも呼びかけていると考えることもできるのではないかと思う)
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男性よりも女性のほうが読書に時間を割いている(5月21日、Corriere della Sera).
読書をする女性は、全体の53,1%、男性は、40,1%である。
これを20歳から24歳の若者に限定するとよりコントラストが鮮明になる。本を読む女性は65%なのに対し、男性は41,3%である。
なぜ女性のほうが本を読むのかというアンケート(www.feltrinellieditore.it)に対しては、
夢の世界に生きているから 10%
想像力にめぐまれているから 68%
男をあきらめるため 22%
また女性は小説を読む人が多いのに対し、男性はしばしば職業的な必要から本を読んでいることもわかった。
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二輪レースの最高峰モトGPで、ヴァレンティーノ・ロッシは三位に入賞し、今期初の表彰台を獲得した(5月16日、Corriere della Sera).
1位はストーナー(ホンダ)、2位はドヴィツィオーゾ(ホンダ)。3位に今期からドゥカーティに移籍したロッシが入った。
ロッシは、去年ドゥカーティにいたストーナーは第6戦目で入賞を果たしたが、自分は第4戦で入賞した、と誇らしげだ。
また、このフランス・ルマンでのレースでは、シモンチェッリとペドロサが接触し、ペドロサが転倒した。
シモンチェッリは、ペドロサと2位争いをして、ペドロサを抜きにかかったところで接触事故は起こった。
シモンチェッリには、ライド・スルーというペナルティーが科され、一気に7位に後退した。最終的には5位まで浮上したが、この処分にシモンチェッリは大いに不満である。
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RAI の経営が苦しい(5月15日、Corriere della Sera).
10年前とくらべてCM収入が11%減少し、聴取料は年率2,7%で上昇しているのだ。
国別に見るとイタリアの聴取料は安い。
イタリアRAI 1645 (単位は100万ユーロ)
イギリスBBC 4266
フランスFrance TV 2412
ドイツ Zdf-Ard 7232
スペイン Rtve 713
となっている。Raiは一般局が3つ。特別局が11.ハイヴィジョンが1,合計15チャンネルを持っている。
BBCは、一般局が2つ、特別局が6つ、ハイヴィジョンが2、合計10である。ドイツは、一般局が2,特別局が11,ハイヴィジョンが3で合計16となっている。
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カンヌ映画祭で、モレッティ監督の映画が上映されたが、10分間の拍手が起こった(5月14日、Corriere della Sera).
モレッティの映画は、Habemus Papam という教皇を描いた映画である。観客は、笑いと拍手が起こった。
モレッティは、ヴァティカンの批判に対しては、「何年も前に、ブニュエルの冗談「おかげさまで、わたしは無神論者だ」(Grazie a Dio sono ateo. おかげさまで、という表現が神様のおかげでという表現であることがおかしい)がTシャツに書かれていたが、私にとっても同じことだ。誰かがこの映画を観て、私には信仰がないと言われればその通りと答える。わたしはカトリックの教育を受けた、しかし、この映画では、深い信仰を保っている人に反対しているつもりはない」と述べている。
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6月7日から、税金を払わず家賃を受け取っている家主を告発した借り主は、最高で家賃の90%が減額になる(5月10日、Corriere della Sera).
闇で家賃を受け取っていたり、額面が実際より低くなっていたりする場合、6月7日からは家主にとって厳しい処断が下される。たとえば闇で年1万ユーロ払っていた場合、2000ユーロ強に下がるのである。
推計によると50万件の未登録の契約が存在する。こうした闇の支払いのため、国家は10億ユーロの Irpef を得そこなっている。
Sole 24 Ore del lundedi の推定では、ミラノやローマでは、未登録の契約が33%〜46%あるという。南部でポテンツァでは67%が未登録であるという。
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ガブリエーレ・ムッチーノ監督の《もう一度キスを》を見た(有楽町・朝日ホール)。
ムッチーノ監督の《最後のキス》の続編である。カルロとジュリアは結婚から9年たっているが、離婚調停中で別居している。カルロは若い恋人と、ジュリアは演劇青年と暮らし、子どもはジュリアと暮らしている。
カルロは会社で倒れたことから、ジュリアとの愛を取り戻したいと感じるようになる。カルロの友人たち(前作と同じキャスト)もそれぞれに悩める、迷える人生を送っている。
キャスティングで特筆すべきは、ジュリア役のメッゾジョルノが再登場を拒絶したことだ。本人は、ストーリーが気に入らなかったとしているが、カルロ役のステファノ・アコルシと一時同居していて、その後、破綻に至ったことが影響しているのかもしれない、ということを匂わせるコリエーレ・デッラ・セーラの記事があった。
というわけで、今回のジュリアはヴィットリア・プッチーニが演じている。
悩める40歳の男たちである。イタリアだけではないが、思春期が延びて、結婚してからも恋愛が可能になった分、幸せへのチャンスも不幸を迎える可能性も大きくなっている感じである。
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ガブリエーレ・ムッチーノ監督の《最後のキス》を見た(有楽町・朝日ホール)。
この映画は、2001年の映画で、今年の映画祭の中では例外的に「古い」映画である。なぜ今回上映したのかというと、今回の映画祭で続編の《もう一度キスを》が上演されるからだ。
《最後のキス》は30歳になろうとする5人の男たち(高校の同級生らしい)の人間模様を描いている。主人公マルコ(ステファノ・アッコルシ)は、一緒に暮らしているパートナーのジュリア(ジョヴァンナ・メッゾジョルノ)が妊娠したのだが、なにか気もそぞろ。友人の結婚式で出会った高校生フランチェスカ(マルティーナ・ステッラ)に夢中になってしまう。。。ジュリア役のメッゾジョルノの透明感のある美貌を眼にするとマルコの浮気は信じがたいところだが、フランチェスカは大胆に迫ってくる、決して美人というタイプではないのだが、奔放な女性なのである、こうなると抵抗できないか。。。
一方で、ジュリアの妊娠を知った母(ステファニア・サンドレッリ)が、女としての自分に目覚め、夫以外の男性を訪ねあるくのも見物である。
浮気がばれて。。。というストーリーである。
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フェルザン・オズペテク監督の《アルデンテな男たち》を見た(有楽町・朝日ホール)。
映画祭では《アルデンテな男たち》と仮のタイトルが付けられていたが、この夏のロードショーでは
《あしたのパスタはアルデンテ》となることが決まった。夏にはシネスイッチ銀座およびシネマート心斎橋でロードショーがある。
原題は Mine vagante で浮遊機雷の意。トンマーゾ(リッカルド・スカマルチョ)は、ローマで小説を書いている青年だが、実家は南イタリアでパスタ工場を経営している。彼は家業を継ぐ気がなく、実はゲイであることを告白しようとするが、兄に一歩先を越され、それを聞いた父は倒れてしまい、トンマーゾは告白の機会を逃す。
父の会社と共同経営をしようというもう一つ別の会社にはアルバという若く美しい女性がいて、トンマーゾは彼女と二人、工場の見回りなどに行くが、二人の間には変わり者同士の間の友情が芽生える。いやむしろ、アルバには淡い恋心がほの見えるしかけとなっていて、この映画はゲイの問題を考えさせつつ、不思議な純愛物語が仕込まれた映画でもあるのだ。
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クラウディオ・クペッリーニ監督の《穏やかな暮らし》を見た(有楽町・朝日ホール)。
カモッラ(カンパーニャ州の犯罪組織)が関わる怖い話だが、トニ・セルヴィッロという俳優は、どうもこういう犯罪の臭いのする役柄の方が、《われわれは信じていた》のマッツィーニ役よりもはまっていた、というかきまっていると思う。
あるいは、僕自身がイタリアではカモッラのお知り合いはおらず、インテリのお知り合いは何人かいて身近でみていたので、役者とその演技との落差がより気になるのかもしれない。つまり、カモッラに知り合いが多い人がみたら、トニ・セルヴィッロという俳優のやくざぶりは、どの程度リアリティがあると見えるのかは、僕には判断のしようがないのだ。しかし、イタリアのインテリ、たとえば大学教授や弁護士や銀行家などは、どんな雰囲気でどうしゃべるかは見聞したことがあるのでセルヴィッロの演技との落差が気になるのかもしれない。
そういう意味では、見る方の体験というのも、映画や演技を表現する時の大きな制約条件となっているわけである。特に、外国の映画を観る場合はそうかもしれない。が、おそらく、優れた映画、古典になるような傑出した映画というのは、そういう制約を越えて広い層の観客にうったえかける何かをもっているのだろう。
さて、この映画では、トニ・セルヴィッロ演じるロザリオ・ルッソがドイツの田舎町でレストランを営み、妻はドイツ人で子どももいる。そこに二人のイタリア人の若者が訪ねてくるのだが、この二人がカモッラのメンバーで。。。という話だ。平穏な生活は、徐々にかき乱され。。。
こわい話である。
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ルーチョ・ベッレグリーニ監督の《星の子どもたち》を見た(有楽町・朝日ホール)。
この映画は、たまたま飛行機の中で観たので、二回目となる。労災で友人を亡くした港湾労働者。ふとしたきっかけで仲間をつくり、労働大臣を誘拐する計画をたてるが、実際に誘拐してみると政務次官だった。彼らの従兄弟には、左翼かぶれもいたり、TVレポーターが巻き込まれたりと、いろいろストーリー上のしかけがある。
誘拐してからの犯人たちと誘拐された政務次官とのやりとりは、いわばモーロ事件のパロディとも言える。
そういえば、マルコ・ベロッキオ監督がアルド・モーロ事件を描いた映画《夜よ、こんにちは》でも犯人グループに女性が一人いるという設定であった。
こちらは、おとぎ話的な色合いが濃い。舞台となった村人たちが犯人にすっかり意気投合してしまうのである。革命家きどりの従兄弟の登場もあわせ、こうであったならという形での現代からの70年代への投射なのかもしれない。あるいは、現代は、いまだに70年代に問われたことが解決できていないというメッセージが込められているのかもしれない。
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カルロ・マッツァクラーティ監督の《ラ・パッショーネ》を観た(有楽町・朝日ホール)。
マッツァクラーティの作品ではしばしばあることだが、いろいろ語り論じたくなる映画である。明らかにいくつかの映画を踏まえているのだが、それを知らなくても十分楽しめるところが巧みである。
この作品は、映画監督が次回作品の構想をつくりあぐねて煩悶しているところはフェリーニの『81/2』
(8と2分の1、8か2分の1)を意識しているし、イエスの受難を演じる場面が中心部分にあるということでは、パゾリーニの『リコッタ』(むかしは、時々あった、複数の監督によるオムニバス映画の中の1篇)を踏まえている。
監督役は、シルヴィオ・オルランド。イエスを演じる役者が次々と交代し。。。というストーリーである。
受難劇は、活字だけで見るより、等身大の人間が演じるということにインパクトがあるのだなあ、という映画とは直接関係ない感想も抱いた。
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ムッソリーニの愛人だったクラレッタ・ペタッチの日記第二巻が出版された(5月8日、Corriere della Sera).
タイトルは、Verso il disastro (破滅に向かって)、465ページ、21,5ユーロ。ミンモ・フランツィネッリ編、リッツォリ社。扱っている時期は、1939ー40年。
第二次大戦にヨーロッパが突入していく時期である。イタリアは1940年6月まで中立を保つ。クラレッタの記録によると大戦開始から1940年6月までの9ヶ月間、ムッソリーニの態度も激しく揺れ動いたようである。
大戦開始から間もない9月10日には、ムッソリーニは、「ヒトラーは待っていることも出来たろうに」と述べている。しかし1940年5月にヒトラーがフランスに進撃すると考えが変わる。そして6月にはイタリアの参戦に到るのである。
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大変すぐれた、使いやすい辞書であると思う。しかし、どこかどう使いやすいのか、すぐれているのか、あるいは足りない点があるとすれば何かを以下に記してみよう。
現在、中型辞典でもっとも良く使われていると思われるのは、小学館の伊和中辞典(初版1983年、第二版1999年)なので、新しい『プリーモ伊和辞典』と小学館『伊和中辞典』(主として第二版)を比較してみる。
1.大きさ ページの横幅が小学館のほうが大きい。ページ数は、伊和中辞典が1843ページ、プリーモ伊和辞典が1485ページである。
小学館の方がどっしり重く、白水社のプリーモは、少しスマートで(相対的に)軽い。
2.活字の大きさ・種類 プリーモ伊和辞典では、ボールドを多様していて見やすい。見出し語および訳語が明朝体ではなく、ボールド体なのである。活字の大きさもややプリーモの方が大きい。伊和中辞典は、重要単語の重要な訳語にのみボールドを用いている。字がほんの少し小さめで、判型が大きく、ページ数も多いのだから、情報量を単純に比較すれば伊和中辞典の方が大きいのである。
3.見出し プリーモ伊和辞典では、重要単語は、赤く印字されている。伊和中辞典では、重要単語は活字が大きい。また、プリーモ伊和辞典は、すべての単語にカタカナで発音が示されている。さらに、重要単語には、発音記号とカタカナの両方が示されている。発音に関しては、小さなCDがついているので、実際に発音と綴りの関係を確認することができる。ここからも明らかなように、プリーモ伊和辞典の方が、より初心者、学習者向けの辞書と言えよう。
4.さし絵 ここでも見やすさですぐれるプリーモ伊和辞典、情報量の多い伊和中辞典という傾向が顕著である。プリーモ伊和辞典では、さし絵がそもそも大きくて、イタリア語と和訳が並んでいるので、一目瞭然で、理解しやすい。一方、伊和中辞典では、省スペースにして、さし絵のところには番号をふっておいて、1は。。。2は。。。。と文字情報はひとまとめにしてある。例えば人体では、プリーモが胴や腕、くるぶし、かかとといった基本部位(日常的には十分であろう)が挿絵と矢印をもちいて明晰に示してあるのに対し、伊和中辞典では、骨の名前、臓器の名前、血管の名前などが図入りで示され情報量としては圧倒的である。新聞などで、病気や健康に関する記事を読む場合なら伊和中辞典が便利であり、日常会話ではプリーモ伊和辞典で十分とも言える。
5.情報量に関して、一般的には、伊和中辞典が大きいのだが、人名、固有名詞に関しては、プリーモ伊和辞典が一歩抜きんでている。たとえば、音楽関係では、ガヴァッツェーニ、コレッリが作曲家のほうだけでなく歌手のフランコ・コレッリがでている。指揮者のアッバード、バリトン歌手のエットレ・バスティアニーニまで掲載されているではないか!
6.プリーモ伊和辞典の長所として、熟語に対して、いつもではないが、必要に応じて、訳語の前に直訳が添えられている。たとえば、
mettere le carte in tavola (カードをテーブルに置く→)手の内を明かす、包み隠さず知らせる。
となっている。つまり、トランプでテーブルにカードをさらすところから、手の内を明かすという意味になったということが判るわけである。
7.両者に対する要望 語源の説明が乏しい。不思議なことではあるが、英和辞典のほうが、その単語とラテン語との関係を説明してあることが多い。
また、イタリアとカトリック教会の関係はいまさら説明のようもないが、文化や政治の点でカトリック教会に関する用語の理解は、他の言語を学ぶ時以上に必要性が高いと思われる。スペースを必要とするという点からは、ぜいたくな注文かもしれないが、教会関係の用語は訳語だけでなく簡潔な説明があると便利だと思う。たとえば infafallibilita' del papa は教皇の無謬性(伊和中辞典は教皇の不謬性)という訳語が与えてあり、それはその通りなのだが、教皇の無謬性・不謬性というのは、教皇が最高位の司教として(ex cathedra)、教義や道徳に関して述べたことに対しては、過つことがありえない、という概念である。そこまで説明してくれないと、日本の一般読者には判りにくいのではなかろうか。
つまり、辞書を引く人の立場にたてば、これは言葉の辞典であって事典ではない、と言われて、2つも3つも辞書を引くのは面倒である。その点で、プリーモ伊和辞典が、固有名詞を大胆に取り入れたのは、高く評価したい。そういうことからすれば、語源辞典的要素も、百科事典的要素も貪欲に取り入れてほしいというのが、評者の願いである。さらに言えば、英語やドイツ語やフランス語におけるように大辞典が出てくれればと思う。
総合的に言って、『プリーモ伊和辞典』は、初学者から中級、上級にかけて、使いやすく、大変すぐれた辞書であると思います。
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マリオ・マルトーネ監督の映画Noi credevamo (われわれは信じていた)が、ダヴィッド賞7部門を受賞した(5月7日、Corriere della Sera).
『われわれは信じていた』(イタリア映画祭2011で日本でも上映された)は、リソルジメントを描いた映画。この映画は、13部門でダヴィッド・デ・ドナテッロ賞にノミネートされ、7部門で受賞した。
最優秀映画にも選ばれた。
一方、Benvenuti a Sud (南部へようこそ)は、10部門にノミネートされたが、受賞は1つだけ。助演女優賞がヴェレンティーナ・ロドヴィーニに与えられた。
プラシド監督の映画とクペッリーニ監督の映画 Una vita tranquilla (穏やかな暮らし、イタリア映画祭2011で上映)はそれぞれ8部門でノミネートされたが、受賞にはいたらなかった。
ダニエーレ・ルケッティ監督の La nostra vita (ぼくたちの生活、イタリア映画祭2011で上映)は、ルケッティ監督が監督賞を受賞し、主演のエリオ・ジェルマーノがカンヌ映画祭2010に続き、主演男優賞を受賞した。
助演男優賞は、La Passione (ラ・パッショーネ、イタリア映画祭2011で上映)の、ジュゼッペ・バッティストンが受賞した。
特別賞を得たエットレ・スコラ監督は、二人の泥棒に感謝の言葉を述べた。彼らは、スコラ監督の家をあらしたが、翌日になって4つのダヴィッド賞を返却してきた。手紙が添えられ、「金銭的に価値はないが、おそらくあなたには価値のあるものでしょう」。スコラ「イタリア人をほめるのがむずかしい時だが、愛情を持って仕事をした二人の泥棒を褒め称えたいと思います」。
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レッジョ・カラブリアの教師は、平均して、アスティの教師より3倍以上病欠が多い(5月6日、Corriere della Sera).
Tuttoscuola という教育雑誌の調べによると、レッジョ・カラブリアの教師の年平気の病欠日数は12,8日に対し、アスティの教師は、3,6日である。
この調査によると、幼稚園であれ、小学校、中学、高校であれ、病欠がもっとも少ないのはピエモンテ州の先生である。一方、幼稚園、小中高の区別を問わず、欠席が多いのは、カラブリア州の先生であり、ピエモンテ州の倍以上となっている。
学校の職員のほうでは、欠席が少ないのは、クネオ県(7,5日)で、多いのは、ヌオーロ県の15日でそのすぐ後にレッジョ・カラーブリアが14,5日で続いている。
カラブリア州が目立っているのは欠席だけでなく、マトゥリタ(高校卒業試験)の好成績でも突出している。Vibo Valentia では、最高点でマトゥリタを合格した生徒の割合が最高で、最低点で合格した生徒の割合が最低なのである。33,5%が100点か100 e lode で合格しているが、全国平均は、23%なのだ。
100点と100 e lode の比率は、南部では25,8%、北西部では18,7%となっている。カラブリア州では30,4%で、ロンバルディア州では16,6%なのである。
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前教皇の秘密をあばく本が出版された(5月5日、Corriere della Sera).
著者は、フェッルッチョ・ピノッティとジャーコモ・ガレアッツィ。出版社 Chiarelettere.
第二ヴァティカン公会議で、カロル・ヴォイティワ(後のジョヴァンニ・パオロ2世)と机をならべた神学者ジョヴァンニ・フランツォーニは、「ヴォイティワはその複雑さのままに放っておくのがよい」と述べ、列福に熱心な人をやんわりと批判している。
ピノッティは、「ヴォイティワは、偉大な指揮官であり、聖者ではない。共産主義、およびそれにマキャヴェリ的に戦うことに取りつかれていた。解放の神学に反対して教会の権力を守ることに邁進し、ロメロ枢機卿だけを残した。また、聖職者の幼児性愛の存在を否定していた」。
この本は、ヴォイティワの秘密を彼の18歳にさかのぼって書いている。ヴォイティワは、ローマでオプスデイのエスクリバ・デ・バラグエルの周辺と交流し、アメリカではブレジンスキーと、ソ連を崩壊させるために宗教をどう用いるかについて秘密協定をむすんだ。
この人脈/システムは、教皇になってからも用いられ、ポーランドへは、IOR (ヴァティカンの金融機関)やアンブロジャーノ銀行から金が流れ込んだが、マルチンクスやカルヴィを容赦なく用いていた。マフィアで司法協力に転じた者たちの供述によると、マフィアの金も大量にポーランドの連帯に注入された。
しかしこのことがマルチンクスをかくまい続けたり、Legionari di Cristo の Maciel 神父(未成年者8人を虐待したとされる)をかくまうことにつながったのであろう。
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政府は、6万5000人の教職員を正規雇用で採用する予定を明らかにした(5月4日、Corriere della Sera).
9月から一気に採用する予定だが、まだ最終決定ではない。
過去においては、レティツィア・モラッティが教育大臣の時には
2005/06に3万5000人
2006/07に2万人
採用しており、
ジュゼッペ・フィオローニが教育相の際には、
2007/08で5万人
補助職員で1万人採用している。
ジェルミーニ教育相になってからは、
2008/09は、2万5000人
補助職員が7000人
2009/10は8000人
補助職員が8000人
2010/11は1万人
補助職員が6500人となっている。
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パオロ・ヴィルツィ監督の《はじめての大切なもの》を観た(東京有楽町、朝日ホール)。
主人公のブルーノ(ヴァレリオ・マスタンドレア)は風采のあがらない中年男で、時々、薬物に頼っているが、同棲している彼女もいる。妹のヴァレリアが訪れ、母アンナの危篤を告げる。
そこから、現在の母(ステファニア・サンドレッリ)と過去の母(クラウディア・パンドルフィ)が交互に語られる。このフラッシュバックは、あらゆる意味で効果的に用いられている。現在のブルーノの心の鬱屈がどこから来ているのかは、何度かに分けられたフラッシュバックの中で語られる母の奔放な男性関係をたどっていくなかで観客にも明らかになっていく。
実は、母息子だけでなく、母と母の姉の関係も実に屈折した味わい深いものなのだ。さらに、ブルーノとその妹の関係、母をじっと見守るもう一人の男性。
さらにストーリの展開していくなかで、驚きのしかけがある。
飽きさせないストーリー展開なのだが、単にどたばたではなく、ブルーノの母に対する屈折した思いが解き明かされ、少しずつほぐれていくのは見事というしかない。
リヴォルノの街が出てくるが、監督自身の出身地でもありアンビヴァレントな感情がこもっているのだろう。
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マリオ・マルトーネ監督の《われわれは信じていた》を観た(東京九段イタリア文化会館および有楽町朝日ホール)。
この映画は、今回の映画祭の中で、もっとも長く(170分)、そして予備知識を必要とし、映画を観て調べたり、考えたり、誰かと論じたくなる映画である。
まだ観ていない方のために一つだけ注意を。主人公は複数で、4つのエピソードから構成されているのだが、アンジェロとドメニコ、クリスティーナは演じている俳優・女優が途中で替わります。
エピソードの切れ目で替わるので、ふと別のアンジェロ、別のドメニコかなと思いかねないので念のため。つまり、別のエピソード(場所もイタリアからフランスに移動したりする)になっても、その分、年齢を重ねたアンジェロやドメニコが登場する(若い時を演じるのと中年以降を別の俳優が演じるため、顔がそっくりとはいえないので注意)のである。
もう一つの予備知識としてイタリア人であればかなりの人が知っていることは、リソルジメントの活動についてだ。リソルジメントは最初は、イタリア各地(といってもその時点ではイタリアという国は成立しておらず、両シチリア王国だったり、サルデーニャ王国だったりするわけだが)での民主化、立憲君主制などを求めるいくつかのばらばらの動きだったのだが、その中でマッツィーニという人は、いち早くイタリアの統一を主張していたということである。
マッツィーニは共和制による統一を求めていた。しかしリソルジメントの運動家の中には、いくつかの国(王国)のゆるやかな連合、連邦制をめざしていた者もいるし、イタリア全体の首長をローマ教皇にしようという主張もあった。
実際には、サヴォイア王家のヴィットリオ・エマヌエーレ2世がイタリアの初代の王になるわけだが、宰相カヴールは、1850年代の後半にいたるまでイタリア全体の統一ではなく、北イタリアの統一をめざしていたのである。
だから、この映画は、南イタリアからマッツィーニの共和制でのイタリア統一という主張に共鳴した地方の活動家の、実現されなかったリソルジメント、それへの思いが綴られている映画と言えよう。
パンフレットに掲載された監督へのインタビューによると、この映画は高校などでも上映されて現代イタリアをどう考えるかについてのディスカッションの素材となったし、それは監督の意図したとおりのことだという。
つまり、こういう角度からリソルジメントを描いてみせるということは、かなり刺激的、挑発的なことなのであり、これまでくり返し語られてきたリソルジメントに関する物語をひねっているのであるが、われわれのように通常のリソルジメント物語になじみがうすいとどこをどうひねっているのかが判りにくいという点はある。
音楽に関しては冒頭でヴェルディの『ドン・カルロ』の幕開けの音楽が使用され、やがて王が権力者の孤独をなげく時にもちいられるチェロ一丁の音楽が何度もかなでられる。最終エピソードでは、『シチリアの夕べの祈り』の序曲の冒頭が使われるがこれは意味深である。この序曲はしばらくすると、怒りが爆発するような音楽に変わるのだが、その爆発部分は演奏されない。『シチリアの夕べの祈り』では、シチリアの民衆および貴族が、そこを支配するフランス人に対して蜂起するのであるが、最終エピソードは、教皇領であったローマをとりにいこうとするガリバルディ軍をイタリア正規軍が襲うという話で、非常に屈折した物語となってしまい、爆発しようがないのである。
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