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2011年3月 4日 (金)

『ラ・ボエーム』

Teatrolafenice フェニーチェ劇場でプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』を観た。

特別な上演ではなく、歌手もダブルキャストの裏のほうであったが、おおいに満足をした。その理由を考えてみた。

オペラに限らず、劇場に行く、映画館に行くというのは、日常から離れる行為である。特別の空間で、特別の時間を過ごす。であればこそ、今の自分とはかけ離れた時代やかけ離れた状況の人物になりきったり、感情移入したりすることが可能になるのである。

それはテレビを見るということが日常性にあることと対象的だ。テレビなら、普段着のままで、時にはねころがって、チャンネルを替えたりしながら見るともなく見るということも可能だし、集中力が総じて低くなりがちだ。

特別の空間に行くというのに、ヴェネツィアほど気分を高めてくれるところも他にはないだろう。自動車はまったくいないし、歩いていくしかない。歩くのも、古い建物にはさまれた路地が迷路のように錯綜している。そこからぱっと空間が開けると、劇場前の広場に出る。

狭いところから開けたところに出ること自体が空間的なドラマである。ヴァティカンのサン・ピエトロ寺院前の広場も本来そうだったのだ。ファシズム期にあの正面に通じる大通りができるまでは。

フェニーチェの正面は決して大きくはない。そこを入って、ドアをあけて中に入ると信じられない美しさ、まばゆい美がそこに拡がっている。

ヴェネツィアはサン・マルコ教会を見ても判る通り、東方的要素が入っており、金(色)がふんだんに使われている。フェニーチェも一目でわかる絢爛豪華さだが、そこに独特の洗練があって、威圧的ではない。1996年に炎上(放火の疑いが濃厚)する前はもっと美しかったとは、それを観ておかなかった自分を呪うほかない。桟敷席には、ふんだんに装飾がほどこされていて、平土間(プラテア)席から開演前に写真をとる客が多数いたのも無理からぬことだ。

しかもフェニーチェはこれだけ有名な劇場としては驚くほど小さい。スカラ座やローマ、フィレンツェ、ジェノヴァと比較しても一目でわかるコンパクトさだ。

平土間で観たのだが、驚くほどオーケストラが豊かになる。むろん、これは劇場のキャパシティーの問題のほかに、プッチーニの書法があずかっている。つまりヴァーグナー以降のオペラ作家は、ヴェルディの後期もふくめ、良くも悪くも、ヴァーグナーの影響がほの見えたり、時にはありありと聞こえたりする。プッチーニも、オーケストラを雄弁に鳴らすのである。

今回の舞台でそのオーケストラと見事に張り合っていたのはロドルフォ役(テノール)のテッラノーヴァだった。ロドルフォは一幕から、僕は詩人だ、とミミに言うから決して不自然ではないのだが、言い回しが凝っていたり、韻を踏んでいるところがとても多いのに気がついた。

何をいまさらと言われそうであるが、気がついたのには訳がある。フェニーチェは、舞台の上にイタリア語字幕が出るのである。普段は、日本語の字幕に慣れているので、とくにそこに気をつけて聞かなければ日本人にとっては気づきにくいところだ。

しかし、いったん気づくと ancora と aurora などこの単語でなければならなかった、のだと思う。これは、病気で死の間近なミミが「まだ私はきれい?」と尋ねるのに対しロドルフォが「あけぼののように」きれいだよ、と答える場面である。

でも私はもうあけぼのではなくて、日暮れ(tramonto)なのだわ、というところもきれいに韻を踏んでいる。日本語では曖昧に詩的という言葉を使ってしまうが、ここはまさに詩(韻文)になっているのである。

単に意味がわかって、それにプッチーニの音楽の雄弁さが加われば、心動かされる場面だが、そこに詩、韻文の要素を理解すると作品としての完成度の高さ、芸術性に心うたれる。

プッチーニの作品はストーリーや音楽がとても判りやすい。それは劇場であたりをとるのに必要なものが何であるかを彼が熟知していたことを示している。しかし、彼の作品は大衆性を追求しただけのものでなく、芸術作品としての完成度をきわめようとしていたことは、こうしてイタリア語の歌詞をじっくり見るとよくわかる。

さらに言えば、ヴァーグナーや『オテッロ』以降のヴェルディと同様に、冒頭から音楽は、連続して切れ目なく流れていく。つまり、アリアとレチタティーヴォに分かれず、音楽と詞が一体となって芸術家の若者たちのかけあいが続くのである。

若者たちはでかけることになって遅れたロドルフォ(テノール)が、ミミ(ソプラノ)の訪問を受ける。そこではじめてソロらしいソロが連続してアリアになるわけだが、ここもある意味ではロドルフォとミミのかけあいであって、一つ一つのセリフが長くなったのだとも言える作りとなっている。

ストーリーさえ追っていれば内容はすっとはいってくるのだが、音楽的には相当チャレンジングなことを行っていて、しかもそれが力技だということを感じさせない巧妙な作法となっているのだ。

後半、ミミ役ファルノッキア(ソプラノ)も表情豊かに、前半より声も出るようになっていた。彼女は、いつも声を張り上げるのではなくて、語るように歌う(パルランテ)が巧みで、ビブラートにも絶妙な表情、表現が付されていた。

ショナール役のガッバも、終盤、外套のアリアで喝采を受けていた。ムゼッタ役のディアスは、この役柄にふさわしく、大胆に身体をくねらせ、お色気をふりまいてミミのかなしい病気の話に、別の明るい花をそえていた。ディアスは、目立って小柄なのだが、演技も歌もムゼッタにふさわしく、カーテンコールでも大きな拍手をうけていた。

『ラ・ボエーム』を見直した一夜であった。

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コメント

貴方はイタリア人か日本人ですか?
このブログ始めて見ました。
面白いです。
私も似てる内容のブログやってる。
よろしくね

http://itariajinnoshitsubou.blog9.fc2.com

投稿: イタリア人の失望 | 2011年3月 4日 (金) 18時01分

僕は日本人です。

僕は、日本において流通しているイタリアに関する情報がかたよっていると感じて、イタリアで起こっていることは、当然ながら、政治も経済も文化もスポーツもいろいろなことが起こっていると示したいと考え始めました。

とはいえ、徐々に、僕自身の興味がより反映した話題の選択になってきているとは思います。

こちらこそよろしくお願いします。

投稿: panterino | 2011年3月 5日 (土) 06時17分

ご無沙汰しております。

ボエームは私の一番好きな作品ですが、
韻を踏んでいるというのは、全く知りませんでした。
作品の魅力を十二分に堪能するには、やはりイタリア語の勉強が
欠かせないんですね。

なお私事ですが、3月21日(祝)にクラリネットの発表会がございます。
(曲は「冷たき手を」を含むプッチーニ3曲です。)
拙い演奏に加え会場が大阪ですが、ご興味ございましたら
ご連絡願います。

最後は宣伝になってしまい、失礼しました。

投稿: Raimondi | 2011年3月 5日 (土) 12時06分

Raimondi さん

『ボエーム』、一番お好きなんですね。
僕も今まで考えてもみなかったんですよ。うかつなことに。
普通に意味をたどっていくと、自然な会話が続いているように見える、聞こえるわけで。

お招きありがとうございます。今回は滞在がやや長く、22日までイタリアにいます。残念ですが、またの機会に。

投稿: panterino | 2011年3月 6日 (日) 20時29分

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