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2010年9月22日 (水)

ポルタ・ピア140年

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ポルタ・ピアの戦いの140周年をむかえた(9月17日、Corriere della Sera).

ポルタ・ピアの戦いの前後で何があったのかが整理されている。

1870年7月27日
フランス対プロシアの戦争の結果、教皇国家の保護者ナポレオン3世は軍隊をローマから退却させた。この軍隊は、1867年メンターナでジュゼッペ・ガリバルディが教皇ピオ9世に対し迫ったのを撃退したのだった。

1870年9月4日
セダンの戦いでの敗北後、プロシア軍がナポレオン3世を捕らえたのを見て、フランスでは共和制が宣言された。ナポレオン3世の保護を失い、教皇国家はイタリアのなすがままとなった。イタリア王国はつねづねローマ占拠を狙っていたのである。

1870年9月11日
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世は教皇ピオ9世に、交渉により権力を割譲するよう求めたが、その交渉が失敗におわり、ラッファエーレ・カドルナ将軍率いる約6万5千のイタリア軍がラツィオに進軍した。ラツィオは、1860年以降教皇国家の最後の領土だった。

1870年9月20日
5時15分
ローマを取り囲んだイタリア軍は、城壁に砲撃を開始。主な攻撃目標はサラリア門とピア門(ポルタ・ピア)だった。

10時
ポルタ・ピアでイタリア軍歩兵と狙撃兵の攻撃開始。教皇軍は、1万3千人で、そのうち8千人がイタリア人だったが、抵抗は弱く、10時20分頃サボイア軍はローマ市内に入り込んだ。イタリア軍側の死者49人、教皇軍側約20人。

17時30分
教皇軍の指揮官ドイツ人将軍ヘルマン・カンツラーがヴィッラ・アルバーニで降伏文書に調印。

1870年10月2日
ローマのイタリア王国への編入をめぐる住民投票。市内では、4万以上が賛成し、反対は46票だった。ラツィオ全体では賛成が13万3000で反対が1500.教皇は結果を受け入れず、自分はイタリア国の囚人であると宣言した。

1871年5月13日
グワレンティジエ法が発効し、イタリア国は、カトリック教会との関係を規定したが、教皇庁側はこれを認めなかった。

1871年7月2日
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世が正式にローマに入る。1870年12月には洪水被害にあった市民を見舞うためローマに来ていた。7月3日、閣議がはじめてローマで開かれた。

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