ナポリターノ大統領:ローマは唯一の首都
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大学生の作文力が落ちている(9月20日、Corriere della Sera).
ローマ・サピエンツァ大教授ヴァレリア・デッラ・ヴァッレによると、大学生の国語力、作文力は低下してきている。
主な間違いは次の10。
1.次のような語彙が理解できない
obsolete(すたれた), laido(醜悪な), drimere(清算する), fatuo(まぬけな), congruo(適当な)
2.アポストロフォをきちんとつけられない
Un altro か un'altro か
Un'amica か un amica か
3.徐々に接続法が消えている
Se lo avessi saputo, non sarei venuto が、Se lo sapevo non venivo という言い方で置き換えられている
4.遠過去が徐々に消えている
Io andai が Sono andato に
Io dissi が ho detto に
5.文法的誤りが頻繁に
piu が u の上にアクセント記号なしで
un po の o の上にアクセント記号をつけてしまう
6.不適切な比較表現
Andrò a cena a Como piuttosto che a Pavia.
(正しくは、 andrò a cena a Como o a Pavia)
7. ho のつもりで o と書いてしまう
8.セミコロン(punto e virgola) やコロン(due punti) が徐々に消えている
9.文章に初め、展開、結論がつけられない
10.ページの余白を守れない
などである。
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ジェノヴァのオペラ劇場、カルロ・フェニーチェ劇場が予算削減で苦しんでいる(9月18日、Corriere della Sera).
劇場の赤字は、1600万ユーロにのぼる。赤字の原因の一端は、国の補助金削減にある。
2010年度後半の上演プログラムはいまだに確定していない。10月12日に上演予定の『セビリアの理髪師』も上演が疑問視されている。
9月1日からは、劇場の289人の従業員は、月末に給料が受け取れないであろうと覚悟しながら働いている。
ジェノヴァ市長マルタ・ヴィンチェンツィは7月末に「もうお金がない。従業員の一時休業なしでは、破産のリスクがある」と通告していた。しかし複数の労働組合は立場が割れているのだ。Cgil は Cassa integrazione もありうるとしている。Fials の全国組織は連帯契約に応じることは可能としている。Fials の地方組織は、また異なり、独立系の Libersind e Snater はすべてに反対している。
カルロ・フェリーチェ劇場は1828年4月7日にベッリーニのオペラでこけら落としをした。第二次大戦中に爆撃をうけ、約50年後の1991年に新たに落成した。
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保育園の送り迎えをする母親がブルカを着用しているのに対し、母親たちが反対している(9月18日、Corriere della Sera).
ラティーナ県のソンニーノという7000人ほどの住民が住む町。町で唯一の保育園に、あるモロッコ人園児の母親が全身と顔もおおったブルカを来て園児とともに登園したところ、他の園児が泣き出したり、逃げだそうとしたりしたという。
この女性は近くの村のイマームの妻。園児の母親の一人カティア・グワダニョーリは、「われわれは、園に入る時には顔だけは見せるようにとお願いしているんです」。
カラビニエーリは、この女性の夫のイマームであるムスタファ・アッディにも依頼したが、彼は「これは我々の伝統的な衣装だ」と今のところ妥協の道筋は見えていない。
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映画女優のカテリーナ・ボラットがローマで亡くなった(9月16日、Corriere della Sera).
ボラットは1915年トリノ生まれで95歳だった。
最初は、ファシズム体制のもとで、その後はハリウッドにもルイ・B・メイヤーから呼ばれて活躍した。帰国後は、フェッリーニが『8と2分の1』(8 e mezzo)および『魂のジュリエッタ』に起用した。
ボラットがスターになったのは、1937年のブリニョーネの映画 VIvere でその後、いわゆる《telefoni bianchi》(白電話、当時普通だった黒電話に対し、富裕層を示すシンボルだった)の映画に出演した。
スタジオで突然オペラ歌手ティト・スキーパと会い、伴侶となった。
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ポルタ・ピアの戦いの140周年をむかえた(9月17日、Corriere della Sera).
ポルタ・ピアの戦いの前後で何があったのかが整理されている。
1870年7月27日
フランス対プロシアの戦争の結果、教皇国家の保護者ナポレオン3世は軍隊をローマから退却させた。この軍隊は、1867年メンターナでジュゼッペ・ガリバルディが教皇ピオ9世に対し迫ったのを撃退したのだった。
1870年9月4日
セダンの戦いでの敗北後、プロシア軍がナポレオン3世を捕らえたのを見て、フランスでは共和制が宣言された。ナポレオン3世の保護を失い、教皇国家はイタリアのなすがままとなった。イタリア王国はつねづねローマ占拠を狙っていたのである。
1870年9月11日
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世は教皇ピオ9世に、交渉により権力を割譲するよう求めたが、その交渉が失敗におわり、ラッファエーレ・カドルナ将軍率いる約6万5千のイタリア軍がラツィオに進軍した。ラツィオは、1860年以降教皇国家の最後の領土だった。
1870年9月20日
5時15分
ローマを取り囲んだイタリア軍は、城壁に砲撃を開始。主な攻撃目標はサラリア門とピア門(ポルタ・ピア)だった。
10時
ポルタ・ピアでイタリア軍歩兵と狙撃兵の攻撃開始。教皇軍は、1万3千人で、そのうち8千人がイタリア人だったが、抵抗は弱く、10時20分頃サボイア軍はローマ市内に入り込んだ。イタリア軍側の死者49人、教皇軍側約20人。
17時30分
教皇軍の指揮官ドイツ人将軍ヘルマン・カンツラーがヴィッラ・アルバーニで降伏文書に調印。
1870年10月2日
ローマのイタリア王国への編入をめぐる住民投票。市内では、4万以上が賛成し、反対は46票だった。ラツィオ全体では賛成が13万3000で反対が1500.教皇は結果を受け入れず、自分はイタリア国の囚人であると宣言した。
1871年5月13日
グワレンティジエ法が発効し、イタリア国は、カトリック教会との関係を規定したが、教皇庁側はこれを認めなかった。
1871年7月2日
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世が正式にローマに入る。1870年12月には洪水被害にあった市民を見舞うためローマに来ていた。7月3日、閣議がはじめてローマで開かれた。
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ジェルミーニ教育相は、教室で聖書を用いることに賛成の考えを表明した(9月15日、Corriere della Sera).
ジェルミーニは、この考えをカトリック教会の週刊誌「ファミリア・クリスティアーナ」へのインタビューで明らかにした。「ファミリア・クリスティアーナ」は、最近、たびたび政府への厳しい批判をし、政府からも批判をあびている雑誌である。
ジェルミーニは詳細については語っていない。聖書を扱う場合それが、「宗教の時間」内でのことなのか、その他の時間でのことなのかについては語っていない。
そもそも聖書を授業で扱うことに関しては、アマート内閣時に教育相だったトゥッリオ・デ・マウロが10年前に語っていたことである。
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イタリアで電気自動車の開発に向けて、企業の研究所と大学が共同研究する態勢が発足する(9月15日、Corriere della Sera).
企業側はフィアット、ピニンファリーナ、ダッララの中央研究所、大学側はローマ、パドヴァ、パレルモ、ナポリの各大学およびミラノ、トリノの工科大学が加わる。
しかしフィアット中央研究所の所長ネヴィオ・ディ:ジュストによると、この挑戦に勝つのはたやすくない。「時間がないし、イタリアは遅れている。」
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イタリアの漁船がリビア海域で銃撃された(9月14日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)
外相のフラッティーニによるとリビア側からは遺憾の意が示されているという。漁船はシチリアの船だった。
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イタリアの国内総生産が回復のきざしを見せている(9月11日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)
事前の予想に反して、2010年の第二四半期の国内総生産は、第一四半期に比べプラス0,5%、2009年の同期と比べプラス1,3%となっている。
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北部同盟のリーダー、ウンベルト・ボッシは、首相への不信任案が提出されても投票しないことを明らかにした(9月10日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)
これによって、任期終了前の選挙の可能性が小さくなった。
しかし与党内の緊張は高く、フィーニ派は与党の癌だという声があがっている。
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ファシズムに関する新著が出た(コッリエーレ・デッラ・セーラ、9月7日)
著者は、パオロ・コロンボ。La monarchia fascista 1922-1940 というタイトルで、出版社は Mulino. ファシズム体制化におけるムッソリーニと国王の二頭体制に焦点をあてたものである。
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ベルルスコーニ首相は、北部同盟のボッシにブレーキをかけた(9月7日、コッリエーレ)。
北部同盟は、11月にも選挙が実施されてもよいように準備を開始しているが、ベルルスコーニ首相は、フィーニの出方を見ようという考えで、ボッシの動きにストップをかけた。
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Moto2 クラスのライダー富沢祥也が転倒事故で亡くなった(9月6日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)
富沢は19歳。2003年には、ライダーの加藤が27歳で亡くなっている。
事故後もレースは中断されることなく継続されたため、議論が起こっている。
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メータ指揮による《リゴレット》のテレビ中継が世界各国に配信される(9月4日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)
主演はプラシド・ドミンゴ。この役ははじめて。承諾するまでに2年間かかったという。
舞台監督は、映画監督のマルコ・ベロッキオ。指揮はズビン・メータだが、メータは、文化相に対して、政府のオペラへの補助金の大幅カットを批判した。
今回のリゴレットは、台本の舞台となったところで歌い中継される。世界148国に配信される。
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ドン・ヴェルゼが、自分が教皇だったらこうするというビジョンを語った(9月3日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)
記事はドン・ヴェルゼ自身がKOS(サン・ラファエーレ病院の隔月刊の雑誌)に寄せたものをコッリエーレ紙が先んじて報じている。
サン・ラッファエーレ病院の創設者であるドン・ヴェルゼは、自分が教皇であれば、アフリカに行って暮らすだろうとしている。短期間の訪問ではなくて、数年住んで、人々を理解するというのだ。
こうやって5大陸に暮らすのだという。また、自分が教皇であったなら、離婚した者にもコムニオーネ(ホスチア、聖体拝領)を可能にするとしている。
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自動車販売が新たな落ち込みを示している(9月2日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)
2009年と2010年の8月の新車登録台数を比較すると次のとおり。
スペイン -23,8%
イタリア -19,27%
フランス -9,8%
日本 +46,7%
中国 +59,3%
アメリカ クライスラー +10%
フォード -11%
GM -25%
8月のイタリアでの新車登録は6万8718台である。
フィアット・グループの売上は昨年とくらべ-26,3%となっており、市場占有率は30,7%となっている。
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