《タンクレーディ》
ロッシーニの歌劇《タンクレーディ》を観た(6月13日、東京文化会館)。
アルベルト・ゼッダの指揮、藤原歌劇団と読売日本交響楽団、タイトルロールのタンクレーディは、マリアンナ・ピッツォラート、アメナイーデは高橋薫子、アルジーリオは中井亮一、オルバッツァーノはボン・カンリャン、イザウラは、鳥木弥生、ロッジェーロは松浦麗、演出、松本重孝で、非常にレベルの高い舞台だった。
非常にレベルの高い演奏、舞台だということを言った上でなのだが、その一方で、どこかに不完全燃焼感が残ったのも事実なのだ。その感想は、多少のニュアンスが異なるが知人、友人にも共有されていたようなので、傲慢不遜のそしりをまぬがれないことを承知のうえで、あえて満足できなかったところ、ここがもっと改善できるのではと思ったところを書かせていただく。素人が何を偉そうにとお思いの方もあろうが、素人のファンが楽しめる舞台があってこそ、日本のロッシーニ公演が栄えるのだという考えからの繰り言とお考えいただければ幸いです。
さて、やはりロッシーニのオペラ・セリアでは、声の競演、共演が醍醐味の一つだ。日本人の歌手も大変良く歌っていたと思うのだが、突きぬけるところがなかった。ロッシーニは、不思議な音楽家で、《オテッロ》のような悲劇でも晴朗な音楽を書いていて、それで実際に演奏に立ち会うと違和感がないどころか、実にさわやかな快感(快感というところが肝心)を得る。
ロッシーニのオペラでは、もちろんストーリーがあるわけだが、それがリアリズムなのではなくて、そのストーリーを通じて、あるイデアの世界、非現実な世界、晴れ晴れとした曇りのない世界を表しているのだと考えられる。悲しみさえも、現実のめそめそではなくて、悲しみのイデアを表しているような気配がある。
だから、歌手は歌詞をスプリングボードとして、非現実の世界に跳躍してもらいたいわけです。たとえて言えば、これはシチリアのシラクーサでの物語だけど、月の世界のお話ぐらいの感じで突きぬけてほしい。特に、歌詞と音楽の関係から、エネルギーがたまり、動きだし、テンポが速くなるようなところでは、リズムの躍動と声の張りがとても重要だと思う。丁寧に歌ってくれるのは良いのだが、リズムの躍動が弱いと、観客の想像力は、地上から跳躍して、ロッシーニ世界に遊ぶことが困難になってしまう。
歌詞が良く聞き取れたことはとても良かったと思うのだが、歌詞の内容に応じて、リズムがおとなしいところと弾むところのメリハリがもっとダイナミックであってよかったのではなかろうか。その点に関しては、実は、歌詞とそこに付された音楽に細心の注意を払う準備作業が必要で、しかし実際の舞台では、流れるように、ダイナミックな変化を見せて、いや聴かせてほしいのです。緩急自在。また、言葉が良く聞き取れるところから、さらに音楽的表情づけとの有機的関連がもう一歩ほしい。その点において、ピッツォラートは抜きんでていた。これは必ずしも彼女がイタリア人だからではないと思う。イタリア人歌手でもその点に関し、不満を感じてしまう歌手は少なくないからだ。
また、登場人物の掛け合いに関してだが、やはり、声の競演という面がロッシーニの場合、とりわけ強いので、その面はもっと強く出して欲しかった。ロッシーニの場合、歌手は、芸術家であると同時に、アスリートのような瞬発力、すばしこさ、ライバルへの対抗心を持って、それを活かす方向で舞台を盛り上げて欲しい。観ているこちらが、カッカとし、家に帰っても興奮で寝つけない舞台、声の競演を望んでいます。
こんなことを書くのは、今回の上演がとてもレベルが高いのに、何かあとちょっとのところで観客の心に火をつけそこなっているのではないかと思えたからです。そこがとても惜しいと思えたのです。
演出、舞台は、オーソドックスでストーリーの理解を助け、衣装も決して安っぽくなく、満足のいくものだった。
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