《母の微笑》
マルコ・ベロッキオ監督の《母の微笑》を観た(有楽町・朝日ホール)。
原題は L'ora di religione で「宗教の時間」という意味である。イタリアの小中高では宗教の時間があり、選択であるが、大半の子供はその時間を取っている。
映画は、直接的には、宗教の時間を扱っているわけではなく、主人公の母が列聖されるプロセスにあることをある日主人公が知ることから始まる。
母は、修道士で神を冒瀆せずにはいられない兄によって殺害されたのだ。
この映画については、細部にいたるまで、様々な意味が込められており、それについて細かく論じていきたい誘惑を感じる。
この映画は、観客に単純に悲しみや喜びを喚起するような映画ではない。主題が宗教、母が聖女(福者)に列せられるための手続きをめぐる物語なのであるが、主人公は、その息子でありながら神を信じておらず、主人公の息子はまた逆にとても宗教的である。
主人公の伯母たちや兄たちの宗教との関わりも、きわめて俗物的であったり、宗教的であったり多様である。
良く出来た小説がそうであるように、この映画もどの登場人物の立場にたって捉えるかによって、カトリック教会や宗教、あるいは人々と信仰との関係への評価・見え方が変わってくる複雑な映画である。その分、ある意味では「難解」なのであるが、一つ一つのせりふに奥行きがある。
これはもちろん、イタリア人の教会、宗教との関係の深さの反映でもある。
この映画は、そういった宗教との関係のみでなく、主人公とその息子の宗教の先生との恋愛も絡んでくる。ところが、この女性のアイデンティティが謎に満ちていて、主人公と息子の証言は、その女性教師の名前、容姿にいたるまでまったく食い違っている。この女性は、主人公の妄想がつくりだした幻影なのか?
リアルな部分と、主人公が画家で、キャンバスとコンピュータ上で絵を描いているのだが、イメージというものが現実のものであるのか、架空のものであるのかという問題が、母の実人生と聖女としてのイメージとパラレルになっている。
102分の映画なのだが、こちらの頭をぎりぎりまで絞りあげる映画とも言える。
イタリア映画祭10年の節目の年に特別上映された映画は、この作品と、ジュゼッペ・ピッチョーニの《もうひとつの世界》であった。どちらもカトリックの世界を扱った映画である。この選択には全面的に賛成である。イタリア映画は、カトリックの世界をふくめて描いた時に輝きを増し、奥行きを増す。言うまでもないが、それは教会に対して肯定的か批判的かということとは、独立事象である。
《母の微笑》を最初に観た時には、ヨハネ・パオロ2世が次々と聖人および福者を出していることへの批判ということが頭に浮かんだ。そしてそれは的外れな感想ではなかったと今も思うが、ベロッキオの視座は、そこにとどまらず、深く、複雑である。
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