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2010年2月 4日 (木)

倉科岳志『クローチェ 1866−1952』

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倉科岳志著『クローチェ 1866−1952』(藤原書店)を読んでいる。

クローチェはイタリアでは現在でもしばしば言及される基準点とも言うべき存在なのだが、そのことは日本ではきわめて見えにくい。何より、クローチェを紹介する書物が少ない。翻訳もあるが、クローチェの全体像を伝えるものとは言えない。

このたび、倉科岳志氏によるクローチェについての単著が出版されたことは、その意味で、大変有意義であろう。日本での忘却ぶりを考慮にいれて、本書は、もともとは博士論文がもとになっているのだが、新たに「小伝 ベネデット・クローチェ」という最終章を書き下ろしている。評者のような社会思想や哲学が専門でないものにとっては、これが最もとっつきやすくまた有意義な情報がつまっている。評者などは個人的には、評伝をもっと詳しくしてくれればと思ったほどである。

しかし、本書の眼目となる議論は、クローチェの思想が、ファシスト政権の独裁制樹立を機に転換を示したかどうかをめぐるものだ。倉科氏は、そもそもそういった問題の立て方そのものが、戦後のファシズム対反ファシズムという図式にとらわれたものだとしている。むしろ、クローチェは、「ファシズム期に入っても精神哲学体系における政治と道徳の関係を転覆させたわけではなく、むしろ体系を維持し、精緻化させながら、その上に自由主義を構築したのである」としている。

評者には、この主張がどれほどオリジナリティーを持つのか、またさらに、妥当性を持つのかを判定する能力がない。

個人的には、クローチェの著作のうち意外なほど多くを占める芸術、美学、文学関係の論考を読んでみたいと思った。しかし、こういったないものねだりも、本書のクローチェの作品リストを眺め、また、文献一覧があるから言えることだ。まずは、クローチェについて、日本語で読める単著が生まれた事を素直に喜びたい。

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