ホロコーストとピオ12世
イギリスで教皇ピオ12世のホロコーストをめぐる発言を記した文書が発見された(2月1日、Corriere della Sera).
文書はロンドン郊外のキュー・ガーデンのナショナル・アーカイヴのもの。二つの文書があり、1つ目は、1943年10月19日に教皇庁で行われた教皇とアメリカのヴァティカン大使ハロルド・ティットマンの会談の記録である。ローマのゲットーで1000人以上のユダヤ人がナチスのSSにより連れ去られた事件の3日後のことだった。
短い報告書から、ピオ12世はこの悲劇的事件については言及しておらず、むしろ連合軍がローマを戦場にしないよう全力を尽くしてくれと述べている。さらに、ピオ12世は、ローマからのドイツ軍撤退と連合軍到着の間に、共産党の小部隊が暴力行為におよぶのではないかと懸念している。
2つ目の文書はより詳細なもので1944年11月のもの。ピオ12世とイギリスのヴァティカン大使フランシス・ダーシー・ゴドルフィン・オズボーンの会談の記録である。ローマは6月に解放されていたが、戦争は続いており、この時、ドイツ軍はハンガリーから大量のユダヤ人をアウシュビッツ(強制収容所)に送還していた。ハンガリーは、ソ連軍とドイツ軍の戦場となっていたのである。この間、ソ連軍は、バルト諸国を支配下におき、ポーランドで両軍は対峙していた。
ダーシー・オズボーン大使は、イーデン外相の言葉を伝え、ハンガリーのユダヤ人に味方する声明を発してはどうかと教皇にすすめた。教皇は、ここ数日、バルト諸国(エストニア、ラトビア、リトアニア)やポーランドでソ連軍が行った蛮行を非難するよう促されたところだと答えた。
ダーシー・オズボーンは、(当時イギリスの連合国であった)ソ連を非難しないようすすめた。世論にネガティヴな影響があるといけないという理由で。教皇は、具体的な名前はあげないだろうと請け合った。
ダーシー・オズボーンは、東ヨーロッパにおけるソ連軍の蛮行についての情報は得ていないがいずれにせよ、ナチスのなした行為に比較しうるものではありえないとして、ナチスのガス室でのユダヤ人大量殺戮に言及した。この点に関して、教皇は同意した。
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