
マウリツィオ・ポッリーニの『バッハ:平均率クラヴィア曲集第一巻全曲』(CD)を聞いた。
静かに圧倒された。ポッリーニは、この曲集を昔から演奏会では弾いており、その昔FM放送でも流れたことがある。
しかし何年たっても、録音が出て来ないので、半ばあきらめていたのだが、今回、満を持して録音(録音場所は教会である)したものと思われる。
演奏であるが、一見、一聴、実にさりげない、自然なピアノの響きである。音楽の流れがよどみなく響き渡っていく。しかし、ふと考えると、これは周到に用意され、調節された自然さであると思う。つまり、バッハの平均律は、いうまでもなく多声音楽で、3声、4声、5声のフーガがでてくるわけだが、どの声部もじつにくっきりと聞こえるし、それぞれが音楽的なのである。これは驚異的なことだ。
ピアノで、バッハを処理するにあたって独特の奏法を「発明」したのは、グレン・グールドだった。スタッカートあるいはそれに類する奏法を多様して、従来のレガート奏法が基本だったピアノ演奏の常識を根本的にくつがえしたのである。この衝撃は、計り知れないほど大きかったし、現代のバッハ演奏という時に、ずっと一つの基準点(それ以外の演奏法を認めないという意味ではなく)でありつづけるだろう。
それに対し、従来のピアノ奏法にもとづいて平均律を弾ききったのは、リヒテルだった。リヒテルの演奏は、ピアノ音楽というもの、またその奏法がベートーヴェンからロマン派にかけて豊かな実りをもたらしたことを踏まえた奏法と僕には聞こえる。つまり、バロックやそれ以前の多声音楽では、右手、左手、あるいは両手にまたがった旋律が、ほぼ等価に響き合うわけだが、ベートヴェンやロマン派では、通常、右手が旋律で左手が伴奏(もちろん、それがひっくりかえることも稀ではないが)といった形をとる。そのことはツェルニーはバイエルといった図式的な練習曲では実に明確になっているのである。
リヒテルの演奏では、一つは、右手の旋律的要素がクリアに聞こえ、左手はやや控え目である。また、録音の加減もあるのだろうが、リヒテルのピアノは、この録音では、霧のむこうから聞こえるような音色(ソフトベダルを多様しているのだろうか?)にも聞こえる。
ポッリーニの場合は、グールドともリヒテルとも異なり、ピアノとしての響きを保ったうえで、多声音楽の特徴を最大限生かそうしている。リヒテルが曲と曲との間に、強弱やテンポの緩急のメリハリをつけているのに対し、ポッリーニではそのコントラストはそう大きくない。むしろ、曲の構造が可視化できるようにすることに注力しているように思う。リヒテルのレコードは、ロマン派のピアノ曲を中心に聞いてきた人が平均律にいどむ(というのも大袈裟なんだけれども、この曲やはり大伽藍を想起させる大きさがありますからね)場合には、相対的にはとっつきやすいかと想像する。
というわけで、ポッリーニの演奏で、いかにも人目を惹くとか、驚くといったことはないのです。もしかすると、人によっては、なんだ平凡な演奏じゃん、と思ってしまうかもしれない。比喩は変かもしれないが、上等の豆腐なり、上等なモッツァレッラチーズ、上等のワインも、ただの豆腐、ただのチーズ、ただのワインと言ってしまえばそれまでで、それ自体は何の変哲もないわけである。たとえば納豆スパゲッティというような耳目を驚かすような工夫はないのだ。
だから、ポッリーニのレコードは、バッハの音楽に雑念なくひたりたい、耳を傾けたい人におすすめです。強い刺激、挑発的なものを求めるなら、グールドの方がはるかに面白いでしょう。
僕は、ここでグールド、リヒテル、ポッリーニの優劣が論じたいのではない。それぞれ、アプローチが異なるのであり、そのアプローチを聴き手がどう考えるかを迫ってくる極めてレベルの高い演奏であり、人類の知的遺産とさえ言ってよいものだと思う。しかも、バッハの音楽は、それぞれのアプローチを許容して、いずれも音楽のあらゆる意味での豊かさを持って鳴りわたり、われわれの心を、浄化さえしてくれるのである。
CDという媒体によって、何度聞いても盤がすりへらずスクラッチノイズにわずらわされることなく、こうした素晴らしい演奏が聞けるのは、実にありがたいことだ。
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