マリオ・オルフェオ、TG2のディレクターに
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女性問題のスキャンダルが取りざたされているベルルスコーニ首相は、「わたしは聖人ではない」と言って反駁した(7月23日、Corriere della Sera).
「世の中にはきれいな子がいっぱいいるんだ。わたしは聖人じゃない。みんな判っているでしょう。レプッブリカ紙の連中も判ってくれるといいんだが...」。ベルルスコーニ首相は、首相官邸への若い女性の出入りに関するスキャンダルをこうちゃかしてみせた。
首相は、この日、ブレーシャ/ベルガモ/ミラノ間の高速道路工事開始の式典に出席し、祝辞を述べたが、突然、個人的な事柄に言及し、出席者の笑いを誘った。
また別の所では、「私の家に来るのは、女性タレントだけではない。政府首脳もくるんだ。私は文化的な人間だから、家に来た人に、携帯電話を使うななどとは言わない」と述べた。また「ゴシップを使うのは、他に批判することがないからなんだ」とも主張している。
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ボルセッリーノ判事没後17年の記念行事がいとなまれた(7月20日、Corriere della Sera).
パオロ・ボルセッリーノ判事は、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事とともにマフィア組織壊滅のために闘い殺された。1992年7月19日、パレルモのダメリオ通りで、彼の警護をしていたアゴスティーノ・カタラーノ、エマヌエーラ・ロイ、ヴィンチェンツォ・リ・ムーリ、ヴァルター・エディ・コジーナ、クラウディオ・トライーナとともに爆殺された。
それは、ジョヴァンニ・ファルコーネ判事が、妻と3人の護衛とともにパレルモ郊外の高速道路で爆殺されて57日後のことであった。
ナポリターノ大統領は、ボルセッリーノを法の英雄として讃えたが、記念式典には、政府関係者の姿は少なかった。
また、この事件の黒幕とされるマフィアのボス中のボスであったトト・リーナは、この虐殺事件の背後には、国家が関与していると、弁護士に語った。司法官は、彼から話を聞くとしている。
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教皇べネデット16世が転倒し、手首を骨折した(7月18日、Corriere della Sera).
ヴァッレ・ダオスタのLe Combesの山荘 に滞在中、寝室で転び、手首を骨折した。
地元の病院で手術をうけ、ギプスをしている。
病院には当初「患者917」として運ばれたが、すぐに情報は伝わった。
教皇は、病院の業務が混乱することを懸念し、他の患者と同じように扱うことを求めた。そのため、レントゲン撮影の際も、他の患者と同様、順番を待った。
右手首の橈骨(とうこつ)に骨折のあることが判り、部分麻酔をして、約25分の手術をした。骨折部分に2本の金属線をいれた。約1カ月後に、この金属線は、外に付けたガラス繊維強化樹脂のギプスとともにはずす予定。
そのため、一か月は、教皇は執筆やピアノを弾くことができない。
病院を出る際には、教皇は看護師ら一人一人にお礼を述べた。
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ベルルスコーニに5人目の孫が誕生した(7月14日、Corriere della Sera).
首相の娘バルバラとそのパートナージョルジョ・ヴァラグッツァの間に二人目の子供エドアルドが誕生し、首相にとって5人目の孫となった。
ベルルスコーニ首相には、5人の子供がいる。最初の妻カルラ・エルヴィーラ・ルチア・ダッロリオ(1985年に離婚)との間に生まれたマリーナ(42歳)、ピエル・シルヴィオ(40歳)。あとの三人、バルバラ(25歳)、エレオノーラ(23歳)、ルイージ(21歳)は、1990年に結婚したヴェロニカ・ラリオ夫人との間に生まれた。
孫は、ピエル・シルヴィオの子供ルクレツィア・ヴィットリア(19歳)、マリーナの子供ガブリエーレ(7歳)、シルヴィオ・ジュニア(5歳)、バルバラの子供アレッサンドロ(2007年生まれ)がいる。
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上院で原子力発電を再開する法案が可決された(7月10日、 Corriere della Sera).
政府案では、1万3000メガワットの出力で、4つの発電所をつくる。最初の発電所は2020年までに稼働させる見込み。
現政権のもとで、工事に着手するとしている。
EU加盟の27カ国では、そのうち15カ国が原子力発電所を稼働させている。
現在イタリアのエネルギー源は、原油など19%、ガス50%、石炭14%、再生可能エネルギー17%となっている。政府の目標では、2020年に原子力を25%としたいとのこと。
イタリアでは、最初の原子力発電所は、1962年にフェリーチェ・イッポリトの尽力によりできた。1966年には、イタリアは世界第三位の原子力発電国であった。
しかし1986年4月26日チェルノブイリ原発事故ですべてが変わり、1987年に実施された国民投票で71,9%が原発廃止に賛成した。というわけで、現在イタリアでは原子力発電所は一つも動いていない。
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ナポレオンIII 世が、リソルジメントに果たした役割が再検討された(7月8日、Corriere della Sera).
エウジェニオ・ディ・リエンツォが、エイナウディのイタリア史のAnnali の第22巻に、ナポレオン3世のリソルジメントにおける役割を見直す論考を寄せた。
ディ・リエンツォは、ローマ・サピエンツァ大学の現代史の教授である。
ディ・リエンツォは、これまでアルベルト・バンティや、ポール・ギンズボルグも、「外交や国際関係というコンテクストを、文化やメンタリティの歴史に集中するために、無視してきた」としている。実際は、ジョアッキーノ・ヴォルペやフランコ・ヴェルセッキが言うように、リソルジメントは外交の労苦がなければ不可能であったのだ。
ロザリオ・ロメ-オはその著書『カヴール』(邦訳『カヴールとその時代』(白水社、柴野均訳))で、第二次独立戦争の民衆的でない面をあざやかに描き出している。
ディ・リエンツォは、フランス人歴史家や我が国(イタリア)のピエール・ミルツァがとる解釈、ナポレオン3世はまったく親イタリア的だったという考え方に挑んでいる。
ディ・リエンツォの論考の題は、「イタリア、フランス、ヨーロッパーーソルフェリーノから統一まで(1859−1861)」というものである。外交文書を特に重視している。
ディ・リエンツォによれば、「ナポレオン3世は、ポー平野に、オーストリアのあらゆる野望をブロックする大きなゾーンを作る構想を持っていた。そこから、中くらいの国家、サボイア王国とロンバルディア、ヴェネトを含み、アペニン山脈に達するような国家の形成を支持した」。彼のこころづもりでは、そこには、トスカナ、教皇領、両シチリア王国は含まれないはずだった。
これはフランス側から見れば、まったく理解できる考え方だ。ナポレオン3世は、統一イタリアというよりも、イタリア諸国家の連邦を考え、それを教皇が教皇領とともに、調停者の役割を果たすという構想であったのだ。
この考えは、カヴールのイニシアティヴにより難破した。
ディ・リエンツォは、フランスが常に親イタリア的であったとする見解と不協和音をかなでる事実として、ソルフェリーノの戦いでオーストリアが敗れたあと、ヴィッラフランカでフランスは和平に調印したが(1859年7月11日)、プロシアがオーストリア側について参戦するのをおそれたとしている。実際は、プロシアはフランスを攻撃するつもりはなかった。ナポレオン3世は、ロシアとの同盟によってそれを完全に知っていた。
ヴィッラフランカの和平を受け入れたのは、ロンバルディアをピエモンテに割譲するという重要なステップはあったもののの、イタリア戦争を限られた規模のものにし、カヴールの野心を抑えるためだったのだ。
また、ディ・リエンツォは、ガリバルディの千人隊がシチリア上陸したあとも、ナポレオン3世は、両シチリア王国のうち、イタリア半島はブルボン家のものである状態を維持し、シチリアは別の王家に提供する考えを持っていたのだとしている。
また、フランスは統一イタリア王国の承認がおそかった。イギリス、アメリカ、トルコの後、1861年7月12日のことであった。
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フィレンツェのオンニサンティ教会の磔刑図(写真)は、ジョット作であることが修復作業の結果明らかになった(7月8日、Corriere della Sera).
大部分の研究者は、これまでこの磔刑図をジョットの縁者か弟子によるものとしていた。が、Opificio delle pietre dure (準宝石製作所)の修復によりジョット自身の製作であると判定された。
これまでは、ほこりや蝋燭のすすにまみれて細部が見えなかったが、このたびの修復、洗浄により細部が明らかになって、ジョット作であるとされるようになった。製作年代は、1310年代らしい。大きさは450×360cmと巨大である。しかもオリジナルは、この下に約1メートルのゴルゴタの丘とアダムの頭蓋骨をあらわしたものが台座としてあった(今は失われている)。
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ナタリーノ・サペーニョのマンゾーニに関する講義録が出版される(7月6日、Corriere della Sera).
この本は、《Opere di Natalino Sapegno》(ナタリーノ・サペーニョ著作集)の第5巻で、Manzoni, Lezioni e saggi (Aragno, 396ページ、30ユーロ)である。これは、1946年から48年にかけて、ローマのサピエンツァ大学での講義録である。
マンゾーニの生涯には、大きな事件がない。唯一の大きな事件は改宗である。ある時点までは、ヴォルテール流の理神論からオーソドックスなカトリックへの改宗である。それが、文学上では古典主義からロマン主義への転身と重なっている。
前者は、広範囲に詳細に研究されているのだが、後者は、前者と密接な関係を持っているのにもかかわらず十分調査されてこなかった。
また、改宗以前のマンゾーニというのは、改宗に先立つ期間として捉えられる傾向があり、つまり本当のマンゾーニの歴史は1810年から始まるとでも言いたげな風情だったのである。
本来、改宗以前のマンゾーニの作品はそれ自体として研究していく必要がある。たとえ、彼の詩人として意義のある作品は、 Inni sacri というカトリック教会の祝祭日に捧げた詩からだとしても。
サペーニョは後に、1963年、新聞La Stampa に、「マンゾーニの擁護」と題する一文を寄せている(この一文は今回の本に収録されている)。
これは、ベネデット・クローチェの『いいなづけ』の美的価値の再評価や、グラムシによるイデオロギー的な観点からの再評価に対して出されたものだ。グラムシは、マンゾーニをブルジョワ階級の「雪的知識人」という立場で捉えようとしていた。それに対し、サペーニョは、『いいなづけ』は、「卑しい身分や抑圧された人々の叙事詩」であると捉えたのである。
またサペーニョは、前期マンゾーニのある種の革命性、自由主義者としての性格を深く論じている。
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アルコール販売に関し、規制強化の論調が出てきた(7月5日、Corriere della Sera).
タバコに続き、アルコール飲料に関する販売規制強化の動きがある。
歴史的な経緯は次の通り;
1992年 警察が交通取り締まりに関し、酔っぱらい運転の検査のためアルコール検知器を導入
1998年 アウトグリル(高速道路のサーヴィスエリア)で22時から翌朝6時までは、アルコール度の強い酒類の販売中止を決定
2001年 高速道路で22時から翌朝7時まで、アルコール度数の強い酒類販売を禁止
2007年 すべての娯楽施設で、夜中2時以降のアルコール飲料販売を禁止
2008年 すべてのアルコール飲料販売所で、アルコールの血中濃度に関する表を表示することを義務づける。血中濃度1リットルあたり0,5グラムまでが自動車運転などで合法の範囲。
2009年 コープが18歳未満へのアルコール類の販売中止を決定。
モンツァでは、16歳以下の未成年には、バール、公的場所、商店、スーパーマーケットでのアルコール類販売を禁止。罰金は最高400ユーロで、ランダムに検査を実施する。この条例は、6月から施行された。
まもなくミラノでも同様の条例が施行されるが、罰金の額がさらに高額になる。
議論としては、禁止を16歳未満ではなくて、18歳未満とすべきとの論調もある。
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政治家のあだ名が紹介されている(6月29日、Corriere della Sera).
政治家のあだ名は昔からあり、15世紀のピエロ・デ・メディチ(1416ー89,ロレンツォ・イル・マニフィコの父)は「通風病み」(Il Gottoso)というあだ名だった。現代では、アンドレオッティが「せむし」(Il Gobbo)という悪意を含んだあだ名を頂戴している。
ムッソリーニは「あご」(Er Maschella)と呼ばれ、ベルルスコーニは「カイマンワニ」(Caimano)と呼ばれている。
ヴィットリオ・エマヌエーレ3世は、小柄であったため、「小サーベル」(Sciaboletta)と呼ばれた。ベッティーノ・クラクシは「大イノシシ」(Il Cinghialone)と呼ばれた。ジャンニ・デ・ミケーリス〈写真)はダンスが好きで、「踊り魔」(Avanzo di balera---avanzo di galera のもじり)とあだ名された。
あだ名は、政敵にネガティヴな評価を与え、馬鹿にする表現なのである。
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政府の経済危機対策が打ち出された(6月28日、Corriere della Sera).
企業に対しては、利益で償却可能な機械を購入した場合、50%減税される。この措置は、2010年6月30日まで有効である。政府はこの措置のため1億9000万ユーロを手当てしている。
エネルギーに関しては、メタンガスを企業向け値段を下げる。Eni (イタリア炭化水素公社)は50億立方メートルのガスを同業者に対して、売却し、競争参入させなければならない。これは全体の7%にあたる。また売却価格は、ヨーロッパの平均価格をもとにせねばならず、これは現在のイタリアの価格より安い。こうした自由化により、エネルギー価格が下がることが期待されている。
また行政の調達品に対する支払いを早くする。
公衆衛生に関する支出を抑制するため、薬剤費に上限を設ける。アブルッツォ通達によりすでに14%から13、6%になっているが、それをさらに13、3%に下げる。
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マトゥリタ(高校卒業試験)が6月25日から始まるが、世代によって様々な思い出がある(6月25日、Corriere della Sera).
今年のマトゥリタ受験者は約50万人。
イタリア人にマトゥリタの思い出を尋ねると、たいてい、恐怖、不安などと答え、中には、今でも夢でうなされるという人もいる。
しかし元大統領チャンピの場合、いささか事情は異なる。「私の場合、トラウマではなかった。軽い気持ちで受けたからね」。「受けたのは1937年で、16歳になったばかりだった。リヴォルノのイエズス会系の高校2年生だった。小学5年生を飛び級しており、また先回りしたいと思って受けたわけだ」
チャンピの時は、三科目の筆記試験とすべての科目の口頭試問。数ヶ月後に、ピサのノルマーレ(大学)を受けたが、その時にはジョヴァンニ・ジェンティーレが直々にチャンピに質問したのであった。
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教皇ベネデット16世は、デ・ガスペリを福者にする手続きを推進することを促した(6月21日、Corriere della Sera).
デ・ガスペリは政治家であるが、「神のしもべである」(E' un servo di Dio)との見解をラッツィンガ—は示している。アルチーデ・デ・ガスペリを福者にという動きは2003年に様々な論争を引き起こし、列聖調査申請者(postulatore)が辞任した時に、動きが止まってしまったのだ。
デ・ガスペリの元で働いていたジュリオ・アンドレオッティは、「まったく疑いない。デ・ガスペリは聖人だ」と述べている。
デ・ガスペリの福者への手続きは1993年に開始したのだが、途中で止まってしまったのである。表向きは、申請者でトレント大司教の弟ティト・サルトリが辞任したからであるが、アルト・アディジェの人々はデ・ガスペリを良く思わない人もいるのだ。彼が、南チロルの自立を妨げ、南チロルをアルト・アディジェの中の一部にしてしまったという非難があるのである。とはいえ、デ・ガスペリーグルーバーの合意により、それなりの独立性は保たれたのであるが。
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カラビニエーリの呼称が変わる(6月21日、Corriere della Sera).
Regione carabiniere Lazio (あるいはLombardia, Sicilia, Puglia) というのはなくなって、Regione が Legione に変わる。実は、この呼称は、1992年11月3日まで用いられていたものである。
当然だが、Legione は古代ローマ、ローマ帝国のレギオン(3隊の百人騎兵隊と3000人の歩兵からなる軍団)に由来する名称である。
もともとカラビニエーリは、1814年7月j13日に Corpo dei Carabinieri Reali として創設された。本来ならフランスにならって gendarmi と呼ばれるべきであったが、国王ヴィットリオ・エマヌエーレはフランスが嫌いだったので、カラビニエーリ(カービン銃で武装した部隊)と呼んだのである。
現在カラビニエーリには、将校(ufficiali) が3795人、警部 (ispettori)2万8224人、巡査長(sovraintendenti)1万7888人、兵長(appuntati)5万9621 人、生徒656人、合計11万184人がいる。
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