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2009年4月10日 (金)

《マリア・カラスの真実》

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映画《マリア・カラスの真実》を観た(渋谷・ユーロスペース。上映時間は、4月18日以降変更となるので注意が必要です)。

ドキュメンタリー映画である。使用されている画像はほとんどが既出のものであるが、編集の仕方が異なれば、編集した監督のカラス観が出てくる。

カラスがヴェローナの企業家メネギ−ニに見いだされて、一流の歌手となり、そこから演出家・映画監督のヴィスコンティと出会ってディーヴァに変身する様は、すでに知っていてもその変貌ぶりはやはり驚く。エルザ・マックスウェルと知り合って社交界の面々と知り合っていくこと、海運王オナシスとの出会い、誘惑、結婚を望みながら結局は裏切りにあうことなどがつづられていく。

この監督は、カラスがメネギ−ニからオナシスに移ったのは、女としての歓びをオナシスが与えてくれたからだという解釈をとっている。カラスがオナシスの子を8ヶ月で帝王切開し死産したことも書類つきで出てくる(噂としては、聞いたことがあったが、病院の診断書は見たことがなかった)。

オナシスに裏切られたあとは、舞台出演も減り、落魄していくわけだが、サーカスにも出ていたことは今回初めて知った。

カラス自身の芸術観は、トークショーでのヴィスコンティとの対話およびメトロポリタン歌劇場の支配人ビングとの対立に如実に現れている。ヴィスコンティは、カラスを完全主義者であるとし、だから練習も人一倍やって、それに付き合うのが嫌な人はカラスを嫌うのだという。

ビングとの対立点は、これまで何度もやった演目ばかりをやらされることをカラスが拒絶したこと、また、演目ごとの練習が短すぎることなどであった。こうした不満もカラスが完全主義者であることの現れと解釈すれば納得がいく。

映画のナレーションは、カラスが時代の要請に応えられなかった、時代から取り残されたとしていたが、僕自身の感想としては、そういう方向に変わってしまったためにオペラはかつての魅力を失ってしまったのだとの思いを強くした。

テレビとも映画とも異なった魅力を舞台が放ちつづけるためには、お手軽なプログラム、スターだけを配して練習はほとんどしないでは、アンサンブルの妙味は発揮できないし、歌手もその役になりきって
オーラを発揮することはむずかしいだろう。

晩年のカラスは孤独である。カラスは芸術家としては文句なく超一流であったが、幸福な家庭生活には幼い時からめぐまれない人であった。実母との葛藤はすさまじいものがある。そのせいか、自分を幸せにしてくれる男性を見抜く目だけはなかったように思える。

死後のエピソードも、だめ押しのように悲惨なものだった。

映画中に使用されているカラスの歌はうまく選択されていたし、音響の処理も適切であり、カラスの音楽、声を十分味わうことが出来た。

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コメント

カラスがいっそう好きになりました、いっそう尊敬します。亡くなってカラスがいかに素晴らしい歌唱だったか、日一日と分かってきました。生涯はあまり知りませんでした。オナシスは馬鹿だと思っていました、それぐらい。肥満の克服。とか。
 悲劇的な人生、芸術家の古典的な、オーソドックスな芸術人生と解釈しています。感激しました。いっそう好きになりました。あの声!

投稿: tulipani | 2009年4月10日 (金) 12時38分

tulipani さん

カラスの声は、特徴的であって好き嫌いも別れるところでしょうが、楽曲のドラマティックな描出は、他に真似の出来ないものであると思います。

投稿: panterino | 2009年4月11日 (土) 20時56分

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