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2009年3月11日 (水)

《イル・トロヴァトーレ》

Trovspan Trovbig

ヴェルディのオペラ《イル・トロヴァトーレ》を観た(メトロポリタン・オペラ)。

実演で観ると、ヴェルディのオペラの異様ともいえるエネルギーを感じる。

そもそもこのオペラ、ストーリーが奇妙といえば奇妙である。ジプシーの息子として育てられている吟遊詩人のマンリーコが、実はルーナ伯爵の弟なのだが、本人はそれを知らない。

彼を育てたジプシー、アズチェーナは母親が伯爵家によって火あぶりにされたため仕返しに赤ん坊だったマンリーコをさらってきたのだが、殺そうと思って間違って自分の子を火あぶりにしてしまったという暗い過去を持っている。

ここまでが舞台が始まる前の状況で、舞台が開くと、マンリーコとルーナ伯爵は、一人の女性(レオノーラ)に恋をしている。マンリーコとレオノーラが相思相愛で、ルーナは横恋慕という形の三角関係である。

ヴェルディと台本作家カンマラーノが設定した舞台は15世紀のスペインで内戦状態である。このオペラの初演が1853年のローマ・アポッロ劇場であったことを考えると、リソルジメントと重ね合わせて観客は時代劇に同時代のイタリアの政治状況を読み込んだことだろう。

今回のマクヴィカーの演出では、時代をナポレオンの軍隊とスペインが戦う時代(1808-14)に移行している。そして、リソルジメントというよりは、内戦を精神の分裂の比喩としてとらえ、それが登場人物それぞれに反映している、というコンセプトになっている。

配役はマンリーコがマルセロ・アルヴァレス。伸びやかな声、歌い回しも上手く、素晴らしい歌いぶりだった。有名なアリア「見よ、おそろしい火を」でも、見事な歌唱を聞かせてくれた。

指揮のジャナンドレア・ノセダは、きびきびとしたテンポで、だれることなく、作品の推進力を表現していて大いに好感を持った。しかも、盛り上がるところでは、スコアの細部の緊張感を醸し出すことも巧みである。強いて難を言えば、盛り上げるときに、オーケストラの音量が大きすぎて、歌手が声を張り上げるときに、張り上げた度合いが打ち消し合ってしまううらみがあったことだ。先に述べたマンリーコの「見よ、おそろしい火を」でも最後の高音 all'armi のところまで緊張感を盛り上げ、テンポを高める手際は文句なく素晴らしかったのであるが、音量にもう一段の配慮があれば、アルヴァレスの声がより生きたであろう。

レオノーラはソンドラ・ラドヴァノフスキ(アメリカのイリノイ出身)で、声量が大きい。舞台をところ狭しと走り回ったり、最終幕でマンリーコを助けるためルーナ伯爵に会いに行く際には、金網の柵をよじのぼったりで、どこまでが演出家のアイデアで、どこまでが歌手の自発性なのかは知らないが、随分と元気のよいレオノーラであった。ロマンティックな歌い回しを丁寧に、わかりやすく歌ったところが当日の観客には最もうけていた。

ホロストフスキーのルーナ伯爵は、どちらかと言えば、《トスカ》のスカルピアに近い、嫌らしいセクハラ、パワハラで権力をかさにきて、女性に迫るといった描き方であった。こういった演出は、それはそれで台本を読めば一理ある。一理あるどころか、それが正当な描き方とも思える。他方、ヴェルディのバリトンは、《椿姫》の父ジェルモンでもそうなのだが、役柄上、悪役のアリアにも高貴なところがある。その高貴な面を全面に打ち出していたのが1960年代のバスティアニーニのルーナ伯爵であった。こちらは、音楽により忠実な描き方とも言えよう。

ホロストフスキーの現在の声を思えば、今回の演出の方が向いていると思う。彼も、声が盛りをすぎ、やや歌い回しが重く、口跡がはっきりしない部分があった。しかし、現代はヴェルディ・バリトンは、人材に事欠かないとは言い難い状況なので、これは現代を代表するルーナ伯爵なのであろうと思う。

ジプシーのアズチェーナはザジックの予定であったが、病気のため交代。Mzia Nioradze で、グルジア出身。この人、なかなか表現力もあり、声も歌い回しもよかった。

最も重要な脇役のフェッランド(ルーナの部下で語り部の役回り)は韓国のKwangchul Youn。はじめて聞いたが、着実な歌い振りで、手堅く役をこなしていた。

ニューヨーク・タイムズによるとメトでは《イル・トロヴァトーレ》は二度ひどい演出が続き、「呪われたオペラ」となっていたとのこと。そういえば、1980年代末だったか、メトの日本公演で《イル・トロヴァトーレ》を見たが、数本の円柱が舞台からにょっきり生えてきたり、また地面に引っ込んだりするというもので、演出の意図も分からないし、説得力もあまり感じられないものだった。アプリレ・ミロがレオノーラだったと記憶している。

今回の演出は、オーソドックスなものの範疇に入るだろう。装置としては、シンプルになった灰色の城を回転させ、修道院になったりするというもの。

内戦と、登場人物の精神の病いを重ねたところが新機軸なのだろうが、実を言えば、プログラムを読むまで、そのことには気づかなかった。そもそも、ストーリー自体が奇妙なものであるため、多少変な振る舞いがあっても、そういうものかと思ってしまうのだ。

演出で不満だったところは、終盤、レオノーラが我が身と引き換えにマンリーコを救うことをルーナ伯爵に約束させたあとの二重唱、「お前は私のもの(tu mia)」のところである。

ここは、レオノーラは命までなげうつことによってマンリーコを救えた歓び、ルーナは恋い焦がれていたレオノーラを手に入れた歓び、二つの中身はまったく食い違う歓びを声を合わせて歌いあげる場面である。音楽は、独特のリズムに沸き立っている。この前後は、ヴェルディのオペラの中でも、傑作中の傑作であると考えるが、この場面でレオノーラが嬉しそうに歌っていなかった。リズムが弾んでいないのだった。しかも、彼女はルーナにすりよっていって、彼の服のぼたんを触り、はずすような仕草を見せるのである。

ここは、自己犠牲というものが、自発的に、歓びをもってなされる様が描かれており、だからこそ、観客はレオノーラの魂の高貴さに打たれるわけである。そこのところが、ぴんとこない演出、演技で、画竜点睛を欠くというか、大いに惜しまれた。

とはいえ、全体としては、指揮、歌手、オケともにレベルが高く、ヴェルディの最高傑作の一つが、こうして21世紀にもメトによって上演されるのはめでたいことと大いに満足した。

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コメント

 ありがとうございました。たいへん味わい深く御学殖、鑑賞眼など感嘆拝見しております。『トロヴァトーレ』大好きで、じつは昨日まさに「tu mia」のところをお友だちとのサークルで読んだばかりでした! メトロポリタン『トロヴァトーレ』はずっと以前の上演の版を殊の外気に入っておりましたが、この世界も変化激しいですね。Leonoraの勇姿好ましい! ちかごろLeonoraが箱入り娘があの勇気を出したところの素晴らしさも見えてきました。はじめのうちはAzucenaとLuna伯爵の強烈な悪たれ個性にばかり目を奪われておりましたのに。
 バスティアニーニのLuna伯ライブを観ました。御説肯首いたします。まことに素晴らしい芸術でした。Lunaにせよ、Scarpiaにせよ、良い歌手が歌い、拍車を浴びる。イタリアの歴史を背負ったひとつの人物像で、Verdiたちの夢、願いなのではないか、とも思います。
 それから『ボエーム』もここに書かせていただきます、遅れてしまい。湖畔上演版のロドルフォやミミの歌手名を思い出そうとしているうちに遅れました。三人の友の友情そして職業への真面目な取り組み、いつも胸うたれます。
 このような御文またぜひ読みたい! 勉!

投稿: lunazuc | 2009年3月12日 (木) 14時05分

lunazac さん

バスティアニーニのルーナ伯をライブでご覧になったとは、うらやましい限りです。個人的には、彼の高貴なルーナ伯爵は、現在聞きうるCDのなかでも、最高のヴェルディ演奏の一つと考えています。彼はイタリア人の中でも口跡が良く、またレチタティーヴォからアリアに移行する部分での歌唱も抜群に音楽性が高いと思います。アリアが終わると気がぬけたように楽譜をなぞってしまう歌手もいないわけではないので。

当時は、バスティアニーニ、ゴッビ、タッデイなど素晴らしいバリトンにこと欠かなかった今から思えば、とても贅沢な時代だったわけですね。僕は、1950年代、60年代の歌手の黄金期のオペラ録音、映像(当時の映像は残念ながらわずかしかありませんが)が好きです。

とは言え、自分が現実に生きているただ今この時の上演というものも、生身の人間のエネルギーに接するという点や、同時代を生きている人たちの解釈という点で、また別の魅力があります。

投稿: panterino | 2009年3月12日 (木) 20時26分

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