
セルジョ・ロマーノが1929年の恐慌時におけるイタリアのニューディール政策について解説している(12月1日、Corriere della Sera).
(この記事は、読者の質問に、セルジョ・ロマーノが回答するコラムであり、昨日のジョルジョ・ラ・マルファの記事と内容が重複する部分が多いことをお断りしますーー管理人)
イタリアの危機は1931年に始まった。ウォール街の崩壊から2年後で、とりわけ銀行に襲いかかった。
この現象をもっとも良く著しているのは、おそらく当時イタリア商業銀行を率いていたラッファエーレ・マッティオーリの文章である。「危機の前夜にイタリアの普通信用の大銀行は、変貌というか変形をこうむった。分配された信用の大部分は、限られた数、約100の会社に供給された。それらは、そうした資金を得て大いに発展することが出来たのだが、いまやそれに依存して、それなしではやっていけない状態になっていた。共存体制が、シャム双生児にまでなっていたのだ」
「銀行は、形式的には、「長短兼営」銀行(banca mista)だったが、実質上、「投資銀行」(banques d'affaires)になっていた」。
この危機の波は、イタリアの産業を広範囲に襲った。銀行は、彼らの貸し付け金が何の価値もなくなっていることに気づき、イタリア銀行に助けをもとめた。イタリア銀行は、すぐにこの呼びかけに応じたが、今度はイタリア銀行が衰弱してしまった。
この時、アルベルト・ベネドゥーチェが、ムッソリーニに、イタリア経済救済策を提示した。Iri (Istituto per la ricostruzione industriale, 産業復興機構)が設立され、大銀行(Comit, Credito Italiano, Banca di Roma) の保有する株式を引き受ける権限が与えられた。また、これらの銀行に、20年ものの資金を貸し付け、銀行が、再び活動を再開することを可能にした。
こうして、Iri を通じて、国家は、経済システムおよびいくつかの大会社の大所有者となった。
銀行を健全化し、企業を救済した後、政府は、実体経済に専念し、ルーズベルトやヒトラーやスターリンがしたのとそう変わらぬニューディール政策をイタリアで実行した。
大規模な干拓や公共事業である。1930年代に新たな町が建設された。1932年リットリア(現在ラティーナ)、1934年サバウディア、1936年アプリリア、1937年グイドニア、1938年カルボニア、1939年ポメツィア。
ジェノヴァとセッラヴァッレの間には、トラック通行の可能な道路が1935年に開通した。また、鉄道の路線も開通したり、強化されたりした。
さらには、再軍備や戦争も、イタリアのニューディールの一部だったが、それは効果と再転落をもたらし、そのことがファシズム体制の凋落と死をもたらすことになった。
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