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2008年11月30日 (日)

《オテッロ》

Otello Img_otello
ロッシーニのオペラ・セリア《オテッロ》を観た(大津・びわ湖ホール)

びわ湖ホールは、その名の通り、まさに琵琶湖に面したホールで、大きなガラス枠を通じて、間近に湖を見渡すことができるし、さらに外に出て、絶景を愛でながらコーヒーなどを飲むことも出来る。

個人的には、はじめて訪れたホールであったが、ロケーションに勝るとも劣らずホールの響きが良い。3階で聴いたが、声もオーケストラも実によく聞こえる。

ロッシーニの《オテッロ》は、ヴェルディの《オテッロ》とは、ストーリーが異なる。ヴェルディのものは、周知のごとく、シェイクスピアの《オセロ》をもとにしている。

しかし、もともとシェイクスピアの芝居《オセロ》は、イタリアのチンツィオの『百物語』を原作としており、ロッシーニの《オテッロ》の台本もチンツィオを原作としているので、細部は異なるが、ヴェルディとロッシーニの《オテッロ》は、兄弟というか、従兄弟のような関係にあるといってよいだろう。

違う部分は、たとえばシェイクスピアでは、オセロの嫉妬をかきたてるのがハンカチなのに対し、ロッシーニでは宛先人不明の手紙となっている。

またデズデーモナは、ロッシーニは親の決めたいい名づけがいるのにオテッロと結婚したことで、父とオテッロの間で気持ちが引き裂かれる苦悩を表現する、そこにかなりの力点が置かれている。

しかし、ストーリーの差もさることながら、音楽の違いはさらに大きい。ロッシーニの音楽は、晴れ渡った空のように明るい。たとえば、大団円で、デズデーモナが死に、イアーゴの死が報告され、オテッロも死ぬのであるが、その音楽は歌詞を知らずに音楽だけを聴いたとすれば、悲劇的な終幕か、ハッピーエンドかは判らないほどである。

また、オテッロもイアーゴもロドリーゴもテノールであり、この曲はテノールの声の歌合戦、技較べ的なアリア、ニ重唱にみちている。曲によっては、二人のテノールが、同じメロディーを同じせりふで交互に歌う(「武器をとれ」)のだから、その力比べに観客もわくわくする。しかし、それは単なる歌手の力比べではなく、楽曲としてシンメトリーの美を構成しているのだ。

ロッシーニの曲はセリアであれ、コミカ(喜劇)であれ、終幕は一度聞いただけで誰でもロッシーニとわかる盛り上がりかたをする。僕は、競馬の最終コーナーを回っての追い込みを連想する。誤解をされるといけないので、付け加えれば、ロッシーニの音楽が低俗だと言いたいのではない。馬の疾走する姿は、間近でみると、実に迫力があり、美しい。それを見て、人も興奮するのである。ロッシーニは、人が興奮するときに心臓の鼓動が高鳴るさまを、音楽的に形式化した天才である。だから、その形式は、興奮する理由の如何にかかわらないのである。

言い換えれば、ロッシーニの音楽は、本格的なロマン派以前であるから、感情表現の仕方が、ロマン派以降の音楽とはまったく異なるのである。感情が一度、抽象化されている。だから、悲劇的内容であっても、青空のように晴朗(セレーノ)な音楽でありうるのだし、それでいて、聞き手は心の高鳴りをおぼえるのである。

この素晴らしさは、ロマン派の感情移入を引き起こし、一体化を要求する音楽とは質を異にする。逆に言えば、その点にロマン派の発明があったとも言えるわけだ。

しかし一度発見してしまうと、この爽やかな興奮は、実に快い。

当日の上演は、演出がジャンカルロ・デル・モナコ(偉大なテノール歌手を父に持つ)。舞台は、海と空が一面に描かれている。そこに動くドアが9つあるのだが、そのドアにも海と空が描きこまれている。まるでマグリットの絵がそのまま舞台になったかのようである。

しかし、このドアは時には寄り集まって弧をなして登場人物を取り囲んだり、またある時は登場人物がドアからドアへと移動したりして、その時々の状況、心理を雄弁に物語るのである。その物語りかたは、上述の音楽の抽象性、晴れやかさと照応した抽象度を持っているといってよいだろう。

コーラスは、両脇の壁の一部分がぬーっとせり出して、バルコニーのようになり、そこにのっているのである。

つまり演出は、自然主義的な方向ではなく、音楽の持つ抽象性に忠実であることによって、高い説得力を獲得していた。

歌手は、オテッロ(テノール)がグレゴリー・クンデ、デズデーモナ(ソプラノ)イアノ・タマール、イアーゴ(テノール)フェルディナント・フォン・ボトマー(テノール)、ロドリーゴ(テノール)ブルース・スレッジ、エルミーロ(バス)ミルコ・パラッツィなどで、若手が多いのは頼もしい。将来が楽しみである。

ロドリーゴの軽い声は、ロッシーニならではの楽しさを味あわせてくれたし、バスのミルコ・パラッツィも発音(口跡)も含めて上質の歌唱を聴かせてくれた。

グスタフ・クーンの指揮は、理屈は判るのだが、テンポが遅め。クレシェンドやアッチェレランドを幕の終わりまでとっておくというのも一つの手ではあるだろうが、それなら、そこまでのアリアや重唱はさらっともう少し早めのテンポにしてほしかった。

繰り返しになるが、ロッシーニのオペラ・セリアは、ロマン派的な感情移入で盛り上がるのではないが、音楽の構造自体が、人間の生理に訴えかけるように出来ており、生理的に胸が高鳴るように作られているのであり、それを反映したテンポであるべきだというのが僕の考えである。

全体としては、ロッシーニのオペラ・セリアの玲瓏な美しさを十分堪能することのできる素晴らしい上演であった。観終わって、実に爽快で、深い満足感を味わった。

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コメント

ご無沙汰しております。
本日から現住地でもインターネットが使えるようになりました。


ロッシーニの「オテロ」はCDで聴きました。
 オテッロ:ホセ・カレーラス
 デズデーモナ:フレデリカ・フォン・シュターデ
 ロドリーゴ:サルヴァトーレ・フィズィケッラ

全曲をしっかり聴いた事はありませんが、録音の少ないフィズィケッラの高密度で高い響きの歌声は覚えています。

ロッシーニのオペラは、ある意味ワンパターンな程にメロディの形式が決まっていますよね。
でも、この形がオペラ・ブッファでは見事に盛り上げていると思います。
更にセリア、セミ・セリアでもマッチするという事は、やはりロッシーニが偉大な作曲家の1人だという証拠でしょう。
また、ヴェルディの「オテロ」で名をはせたテノールの御子息が、演出というのも不思議なものですね。


私も関西にいる間に、一度びわ湖ホールは行きたいものです。
大津へはお仕事と見受けられますが、国内外の移動で体調を崩されませぬよう、お気を付け下さい。

投稿: Raimondi | 2008年12月 1日 (月) 00時21分

Raimondi さん

僕も、カレーラス、フォン・シュターデ、フィズィケッラのCDは聴きました。フィズィケッラも良いですが、この頃のカレーラスも元気な声を聴かせてくれますね。

他に、ウィリアム・マテウッツィがロドリーゴ、ブルース・フォードがオテッロというCDもあります。

びわ湖ホールは、京都から大津が近いので、京都駅からホールまでは30分ほどで着いてしまいます。漠然とイメージしていたより、ずっと交通の便は良いのですね。ロケーションも含め、おすすめのホールです。

投稿: panterino | 2008年12月 1日 (月) 23時51分

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