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2008年10月27日 (月)

アレッサンドロ・バリッコの講演(1)

Alessandrobaricco
アレッサンドロ・バリッコの講演 'Perche' in Italia non abbiamo il Romanzo ma l'Opera'(イタリアはなぜ小説ではなくオペラなのか)を聞いた(慶應大学)。

アレッサンドロ・バリッコ(Alessandro Baricco)は、日本ではおそらくは小説家あるいは映画の原作を書いた作家として知られているかもしれないが、イタリアではそれにおとらず音楽評論家として知られている。というのも、Rai 3 で、L'amore e' un dardo という番組を担当して、その番組がヒットしたからである。ちなみに、このタイトルは、ヴェルディのオペラ『イル・トロヴァトーレ』のなかのルーナ伯爵のアリア「君の微笑み」の一節が L'amore e' un dardo (実は、L'amore ond'ardo が正しいのだが、イタリア人でも勘違いしている人が少なくない)と聞こえることに由来している。この番組は1990年代半ばに放送されていた。

2008年には、テレビではなくて、新聞レプッブリカまたは週刊誌エスプレッソと提携したオペラDVDで、解説役を引き受けている。

慶應大学での講演会の要旨は次の通り。

18世紀末に、ヨーロッパでは、小説(romanzo) という一種の革命が起こった。ゲーテの『マイスター』からプルーストに至る大きな流れで、ヨーロッパは自分自身を語ってきた。

18世紀の末までは、インテリの家にあった本と言えば、宗教書、ガーデニングなどの実用書、歴史、古代ギリシアの本などで、娯楽本はなかった。娯楽は小説の登場を待たねばならなかった。

小説の誕生は、男性にとって脅威だった。女性が本を読むようになったからであり、しかも中身が妻が浮気をするといった内容のものもあったからだ。

19世紀には、医者が若者が小説を読む事を禁じることがあった。今日のヴィデオゲームのようなものである。小説を読み過ぎると、食欲が無くなったり、眠らなかったり、性欲が減退したり、あるいは性欲が過剰に刺激されたりするとされ、30分以上は読むなと指導されたりした。

例外はイタリアで、イタリアでは小説が発達しなかった。それには社会・政治的な理由がある。1815年ウィーン会議の時、イタリアには8王国があった。教皇領を含めれば9つである。国境には税関があり、イタリアの統一的な市場はなかった。また、共通言語もなかった。インテリは洗練されたダンテ以降の教養ある言語を用いていたが、庶民は方言しか知らなかった。

1861年にイタリアが統一されるが、その時点でイタリアの文盲率は75%であった。サルデーニャでは90%にも達していた。また、著作権もなかった。『いいなづけ』(Promessi sposi)で名高いマンゾーニも著作権ではなくて、自分で自費出版で本を出版することでお金を得ていた。同時期、フランスでは、バルザックは多額の著作権料を得ていた。

また、歴史的にみると、小説の歴史を切り開いた巨匠は、イタリア人ではない。

イタリアの小説できわめて重要な二冊を例にあげよう。1冊は、『いいなづけ』(Promessi sposi)で、イタリアでは学校で必ず読む。しかしこの小説は、ドイツ、フランス、イギリスの小説がモデルであり、型としてマンゾーニが発明したものではない。しかしこの小説が、イタリア語のモデルとなった。この小説は、イタリア人にイタリアとは何かを教えてくれた。即ち、宗教性やカトリックであるということの意味を教えてくれたのである。しかしながら、この小説は、ヨーロッパ小説を知るためには、読まなくてもよい小説である。

もう1冊の本はジョヴァンニ・ヴェルガの『マラヴォリア』(マラヴォリア家の人々)(1881年)である。レアリズモを発見した小説といってよいが、フランスではすでに40年前に実現されていたことであり、イタリアはそれだけ遅れていた。

こうしてイタリアでは小説の歴史は、他のヨーロッパ諸国にくれべて遅れていたのだが、その代わりにオペラが発達していた。つまり、イタリア人は、小説には興味がなかった。それはオペラがあったからだ。小説が普及した時期は、オペラの発達期と一致するのである。たとえばモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』(イタリア語で書かれている)からプッチーニまでである。

オペラはイタリア人が発明した娯楽で、今日の映画に相当する。オペラは、当時のイタリアが諸国にわかれていて税関があっても、言語が異なっていても関係なく、同じオペラがミラノ、ローマ、ナポリで上演された。また、小さな都市にもオペラ劇場があった。そして、オペラに携わる人はもうかった。著作権もあった。

オペラ劇場はなぜ馬蹄形をしているか? 馬蹄形をしていると、舞台に近いボックス席からまっすぐ前をみると舞台ではなく、むしろ後方の客席が見える。一見、馬鹿げていると思える。しかし、18世紀の歌劇場は社交場で、ボックス席には良家の子女jがおり、他の座席から見初めた紳士がそのボックスを訪問し、両親の許可をえてしばらく話をしたり、交際が始まるということがあった。

19世紀になると少し歌劇場は落ち着いたが、幕間には料理などが出た。ロッシーニの時代には、平土間ではオペラの最中に賭け事をしていた。またボックス席に娼婦がいて、そこで彼女らが仕事をすることもあった。賭け事や娼婦のあがりは半分が劇場支配人のあがりとなった。

フローベールのボヴァリー夫人は、ある日、たった一日だけ歌劇場で『ルチーア』を聞き、女主人公ルチーアになりきってしまう。彼女の人生は変わる。

もし、ボヴァリー夫人がイタリアにいたなら、毎週のようにオペラに行き、浮気をして、もっと陽気であったろう。

また、オペラの原作になったものは、ギリシア・ローマ神話、伝説、ラシーヌ、シェイクスピア、ウォルター・スコットの『アイヴァンホー』などであるが、イタリア人はこうした作品を読むことを通じてではなく、オペラを通じて知った。

デュマ・フィスの書いた小説など誰もイタリアでは読まなかった。いてもほんの少しだった。それが芝居になった時も観たひとはほとんどいなかった。しかし、それを原作としたヴェルディの『椿姫』はイタリア人の誰もが知っている作品となったのである。

この状態は、プッチーニの時代にもほぼあてはまる。『ボエーム』や『マノン・レスコー』を原作で読む人はごくわずかで、オペラで知っている人がはるかに多かった。

オペラはイタリア人にとっては世界に開かれた窓だった。また、庶民にいたるまで、オペラ通で、作品の善し悪し、歌手の上手い下手が判別できた。

こうしてイタリアでは重要な小説が少ないのである。また、オペラはイタリア人の趣味を変えた。より劇場的で、よりオペラ的なのだ。

現代でオペラを受け継いだのは映画である。1950年代のネオレアリズモもその一例だ。ネオレアリズモは、映画とオペラの出会いを世界に教えた。

文学史で、イタリア人ではじめて世界の第一線に達したのは、イタロ・カルヴィーノで1960年代のことであった。彼は完全にオペラから解放されていた。しかし、彼に至るまでに小説の歴史は200年が経過している。

ジュゼッペ・トルナトーレは頭にオペラがあって、映画をつくっている。

イタリアには、叙述する力を小説以外で用いてしまうのだ。だから優れた詩人はいるが、なかなかすぐれた小説家がいない。詩人には、クヮージモド、モンターレ、サーバ、ウンガレテッティがいる。

物語を語るのは、オペラと映画で、ペンで描くのは詩というのが、イタリアの状況で、その間にちいさな廊下、小さなギャップとして小説家の世界がある。

以上が、アレッサンドロ・バリッコの講演内容の要旨である。この後は、聴衆との質疑応答があった。

バリッコの論点、論旨は極めて明快であり、しかも内容が豊かで、ユーモアにも富み、彼が優れた音楽評論家であり、人気のあるテレビ番組の司会者であったことが確認できた。

この日の通訳は、鈴木マリア・アルフォンサさん(NHKのテレビのイタリア語会話でおなじみ)。これまた、達意の通訳で、バリッコの論理を、きちんと日本語でも論理が通り、しかも日本語としても、判りやすい見事な通訳であった。イタリア語と日本語が交互にはいる形で通訳が行われたのだが、まだるっこさがなかった。ほとんど達人の域である。

主催はイタリア文化会館、慶應大学の側でオーガナイズしていたのは、白崎容子教授であった。


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