シエナ最後のポデスタ死去(3):戦後
戦後体制は変わったが、戦争中のポデスタ(ファシスト体制下での任命制の市長)ソチーニ・グェルフィは報復や復讐を受けることもなかった(コッリエーレ・ディ・シエナ、8月19日)。
彼は戦後、仕事に没頭した。彼は1945年ブルーコ地区のカピターノ兼レットーレ(rettore, 町内会長だが、他の地区はpriore という)となった。つまり、ブルーコというコントラーダ(地区)のパリオの最高責任者であり、通常の町内会長を兼任したのである。町内会長は1946年から1974年までつとめた。
1951年から1956年にも再びカピターノとなり10度のパリオを走り、1度優勝を勝ち取った。1955年7月2日のパリオで33年振りの歴史的勝利を飾ったのである。馬はSturla,騎手はチャンコーネ。彼は亡くなるまでブルーコの名誉町内会長であった。
しかしパリオで彼が歴史に残るのは、ポデスタ(市長)として、1940年6月18日に「戦争による特別状況」のためパリオの中止を命令したことである。
彼はまた、シエナの商工会議所の会長でもあった。またシエナのロータリー・クラブの創設者でもあり、1970-71年会長をつとめた。いくつかの著作もあり、その1つは Uomini e Contrade di Siena. Memoria e vita di unatradizione cittadina という本に収められている。
1976年に、シエナ市の栄誉賞である Magia d'oro を授与されている。
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