シエナ最後のポデスタ死去(2):第二次大戦
シエナ最後のポデスタ(ファシズム期の任命制の市長)ルイージ・ソチーニ・グェルフィの生涯の事績の続きである(コッリエーレ・ディ・シエナ、8月19日)。
第二次大戦中、シエナは大きな不安の中で過ごしていた。結果的には、いくつかの例外的な事件を除いては、大きな被害を被らずに過ごせた。
この幸運の立役者は3人いる。大司教マリオ・トッカベッリ。県知事ジョルジョ・アルベルト・キウルコ、そして市長ルイジ・ソチーニ・グェルフィである。
県知事キウルコは、ポデスタの合意のもとに、シエナを《Citta’Ospedaliera》(病院都市)とし、歴史的中心街区が英米軍から爆撃されることを回避したのである。
そしてその後の内戦の時期、シエナにとってもイタリアにとっても暗く悲しい時期であったが、彼はシエナの人々に呼びかけた。信心深い彼は、ドゥオーモの誓願の聖母への行進を組織し、誓願の聖母にシエナ市の鍵をゆだね、テ・デウム(神の賛歌)を歌った。1944年6月18日のことであった。大勢の人が行進に参加した。この事実はドゥオーモ脇のプレートに刻まれている。
また、ソチーニ・グェルフィは、キウルコ県知事の保証を得たうえで、Guardia civica armata (武装市民警護隊)を組織した。これは全く、非ファシスト的組織で、レリオ・バルバルッリ将軍にその指揮がゆだねられた。
1944年7月3日、シエナに連合軍が入城した時、ルイージ・ソチーニ・グェルフィはパラッツォ・コムナーレの机にすわっていた。彼はすでに町に進軍中のフランス軍をコムーネに迎えいれることを拒絶し、パラッツォの大門を閉じて、黒シャツ(ファシストのシンボル)を着て、鍵を連合軍の司令官に渡した。この振る舞いは、彼自身によって何度も思い起こされたが、ファシズムとその理想への忠誠を示したのだとしている。
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