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2008年8月24日 (日)

オペラの演出論争

Opera コッリエーレ・デッラ・セーラ紙上でオペラの演出をめぐる論争が起きている(8月23日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

ロリン・マゼールがザルツブルクでの演出が耐え難いと言ったのがきっかけで、フランコ・ゼッフィレッリが同意し、新奇な演出に対する攻撃対象として、グレアム・ヴィック、ボブ・ウィルソン、ロバート・カーソン、Claus Guth らが槍玉にあがった。

これに対しヴィックは、芸術の常なる変化を受け入れられないのはとても悲しいというコメントを出している。また、イタリアの問題は、政治であれ、音楽であれ、その他であれ、権力を握っているのが老人で、若い人がどんなに優れていても無視されていることだ、と痛烈に批判した。ゼッフィレッリは85歳である。

スカラ座の総支配人リスナーは、伝統的演出と新演出を分けるのは、間違った論じ方だとしている。つまり、一つ一つの演出はそれぞれ独自のものであるからだ。リスナーはヴィックやカーソン、ウィルソンらを擁護したうえで、その一方で、と断り、「1960年代、70年代、80年代にわたり最も意味深い演出をしたのは、ジャンピエール・ポネルだった。彼は伝統と詩を結びつけることができた。過去と未来、革新と保存は共存できるし、そうさせねばならない二つの魂だからだ」と付け加えている。

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コメント

ポオネルの演出は伝統的でありながらも音楽と連動し、決してその妨げになる事無く、しかも美しいですね。私自身は、あんまり奇抜なものとか、レジーテアターである事にのみ意味があるかのような過剰な『読み替え』演出は苦手です。

特に、ロッシーニと比べるとヴェルディの場合は、そのような『読み替え』現代風演出には腹立たしい気持ちになる事も多いのです。ゼッダ氏曰く、『ロッシーニは抽象的な音楽だから、現代演出にも合うのだ』と言う事でしょうか。

でも、リスナーが言うように、一見斬新なものの中にも、素晴らしいものがあるのも事実だし、古典的演出の中にも、単にゴテゴテ超豪華なだけなものもあれば、ポオネルのように知的なものもあるので、一概に分けられないのも事実。

投稿: rosina | 2008年8月27日 (水) 09時23分

申し訳ありません、コメントの途中で送信していました!

>グレアム・ヴィック、ボブ・ウィルソン、ロバート・カーソン

個人的な意見としてはこの3人の演出は全員苦手系かもしれません・・・。


投稿: rosina | 2008年8月27日 (水) 09時25分

rosina さん

同感です。ヴェルディのドラマは内容的に同化を求めているので、戯曲の上っ面を読んで、変な読み替えを新機軸を出しても、ちっともこちらの心に響かないことが多いですね。それどころか、興ざめなことも少なくありません。

それに対し、ロッシーニの《セビリアの理髪師》や、モーツァルトの《魔笛》は、リアリズムを追求したものというよりは、寓話的な要素が強いので、そこにいろんな工夫を盛り込みやすいのだと思います。

演出家も、オペラおよび個々の作品に対する愛が感じられないなら、引き受ければいいのにと思ったりします。

特に、ヴェルディはそうですね。彼の作品で新演出をするなら、単なるアイデアではなく、渾身の思いで、彼の作品群と付き合って付き合って、つきあい抜いてぶつからなかったら、まあ、ヴェルディを愛好する人々の心を打たないことは確実でしょうね。そうとは思えない演出が多すぎますね。

別の言葉で言えば、オペラ好きじゃないんだろうな、という演出家が多くて閉口しますね。ポネルの場合、オペラに対する愛情があって、個々の作品の特性、音楽史上の位置に対する理解、伝統的解釈、演出を知った上で、彼なりの新味を加えているという気がします。

演出そのものはそれぞれの演出家の独自性があるのは当然ですが、それ以前の準備段階が充分でないのかな、と思えてしまうんですね。

あるいは、良い歌手をじっくりと育てないプロダクションシステムの欠点を、人目を引き、話題をつくらんがための奇抜な演出でカバーしているのかな、と勘ぐりたくなることもあります。だとしたら、とても悲しいですね。

投稿: panterino | 2008年8月29日 (金) 06時16分

ただ今大阪にて、携帯からコメントしております。
技術の進歩を実感します。


現代風演出は、作品のスケールによっても合う、合わないがあると思います。
カヴァレリアや愛の妙薬は、現代に置き換えても違和感が少なく、アイーダやトゥーランドットは、幻滅します。
特にヴェルディの作品は、背景・登場人物・音楽が大規模かつエネルギッシュなので、現代風の演出では上手く魅力を引き出せないのではないのかと。


また最近のオペラは、演劇的要素のテコ入ればかりで、音楽的要素は二の次な気がします。
オペラがオペラであるためには、良い歌声・オケが必要であると思います。

投稿: raimondi | 2008年8月30日 (土) 20時02分

raimondi さん

なるほど、携帯から投稿できるのですね。僕は、どうも携帯をマスター出来なくて、PCからのみ更新しています。

現代風演出の合う、合わないを、作品のスケールとの関係で考えるのはとても面白い視点ですね。僕なりに言い換えさせてもらえば、作品が現実の一側面を描き出そうとしているのか、現実を越えたイデア(理想なり、理想と現実との葛藤なり)を描こうとしているのかの違いとも言えるかと思います。

つまり、ヴェルディの作品は、リソルジメント期およびその熱気さめやらぬ時期に大半がつくられているので、あるべきイタリア、あるべき社会の追求というエトスが脈打っていて、そういう意味でロマン派的であり、単なる現実描写、単なる歴史物語ではないんですね。現実よりも一つ高いテンションの世界を描いているとも言えましょう。だから、現代風のやわな演出では、作品自体の持つエネルギーと釣り合わないのだと思います。

演劇的要素ばかりテコ入れの説、まったく同感です。演劇的要素を活かすためにも、テンポやリズム、音色、表情、様式感すべての点で、音楽的充実をきわめ、エクサイティングなものにしていかないと、新たな観客は得られないだろうし、オペラの世界そのものに活気が失われてしまうのではないかと懸念しています。

投稿: panterino | 2008年8月31日 (日) 01時15分

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