アリタリア、支払い不能状態を宣言
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イタリアの学校で、通信簿に点数の成績が復活する(8月29日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
改革案は省令(decreto del ministro) の形をとっており、政府により承認された。ジェルミーニ大臣(写真)によるプロジェクトである。
おもな改革点は、次の通り。
1.生活態度の評価が10年ぶりに復活する。10点満点で5点以下であると、落第となる。
2.「公民」(educazione civica) が復活する。
3.通信簿の評価が、文章による評価だけでなく、点数で表示されるようになる。
4.小学校で、モドゥロと呼ばれる3人の教員による担任でなく、1人の担任になる(イタリアのモドゥロは、原則として、3人の教員ー国語系を教える人、歴史・社会を教える人、理科・数学を教える人ーがチームを形成し、3人で2クラスを教えるというシステムでmodulo と呼ばれているー管理人註)。
この改革案に対し、Cgil(イタリア労働総同盟)は、modulo, moduli (3人担任制)をいじることには反対であるとしている。
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イタリア人のミネラル・ウォーターの消費量が増え続けている(8月28日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
イタリア人の消費量は、一人あたり年間215リットルである。
ミネラル・ウォーターの他にも、生産物に要する水の量が紹介されている。
たとえば牛肉150グラムを産出するのには2400リットルの水が必要。鶏肉だと1キロあたり3900リットル、豚肉は1キロで4900リットル。
Tシャツの綿250グラムの産出には2000リットルの水が必要である。またコーヒー125CCのためには140リットルの水が必要。トマト一個170グラムには13リットルの水が必要。
一人あたりのミネラル・ウォーターの消費量と2002年から2007年の増減率は次の通り。
アラブ首長国連邦 260,68リットル、+48,67%
メキシコ 205,6 +30,3%
イタリア 202,5 +17,08%
ベルギー、ルクセンブルク 150,1 +17,18%
フランス 136 -3,67%
ドイツ 126,54 +16,54%
スペイン 120,5 +6,3%
レバノン 111,34 +15,01%
アメリカ 111,34 +31,39%
ハンガリー 108,3 +52,63%
イタリアの中でのミネラル・ウォーターの消費量の変化は次の通り。
1980年 47リットル
1985年 65
1990年 110
1995年 138
1999年 155
2000年 160
2001年 164
2002年 167
2003年 179
2004年 183
2005年 188
2006年 194
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0歳から3歳児用の保育園が不足している(8月27日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
EUの補助も含めて予算は7億4300万ユーロが割り当てられているのだが、実際はまったくその予算が使われていない。
目標は、0歳から3歳の児童に対して3分の1、即ち、33%の受け入れ可能態勢を整備することなのだが、実際には、12,3%に留まっている。
0歳から3歳児は、132万4193人おり、受け入れ可能人数は16万3527人で、12,3%となっている。
もっとも受け入れ可能率が高いのは、エミリア・ロマーニャ州で、29,7%、最も低いのは、モリーゼ州で4,2%である。(とコリエーレ紙の記事にはあるが、どうもこれはパーセントと絶対数を勘違いしている。モリーゼ州の受け入れ可能人数は262人で最も少ないが、パーセントでは、プーリア州の1,3%、カラーブリア州の2,4%、カンパーニャ州の2,8%の方が低くなっているー管理人註)。
また2002/03年度から予算配分が開始された企業付属の保育園を利用している子供は3,2%いるが、零細企業の場合は、付属保育園をつくることが想定外のところがほとんどである。
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ヴェネツィアのカラトラーヴァ橋の開通式が中止になった(8月26日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
当初、開通式は9月18日に、大統領臨席のもと、実施が予定されていたが、論争や抗議が強く、市長マッシモ・カッチャーリは中止を決定した。
カラトラーヴァ橋はカラル・グランデ(大運河)にかかる4本目の橋である。他は、リアルト橋、アカデミア橋、スカルツィ橋。
反対や抗議の理由としては、橋の建築に時間がかかりすぎた(プロジェクトは12年前に遡る)、コストがかかりすぎた(470万ユーロのはずが、約2000万ユーロかかった)、障害者への配慮がない(車椅子や赤ん坊のバギーが通る通路がない)など。
橋は長さ81メートル、幅は端が6メートル、中央部分では9メートル。踏み段や欄干などが透明であることが大きな特徴である。
カラトラーヴァは57歳、バレンシア出身。
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詩人ロジータ・コピオーリの詩集《Il postino fedele》(忠実な郵便配達人)が出版された(8月25日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
出版社はMondadori, pp.172, 14 ユーロ。
彼女の詩は、冒頭の数編から美しい。
《Cio' che di te non vedo,/senza fine, /mi fa desiderare cio' che manca》(あなたの見えないところ、/際限なく、/欠けたところが欲しくなる)
コピオーリはレオパルディの研究者であり、何カ所では引用が見られる。またイェイツやサッフォ、ゲーテの翻訳者でもある。
彼女の詩ではつねに限界が光と闇を分ける。
彼女は詩を信頼し、《il limite non e' limite/lo varca di colpo la mente/ la mente sale, va sempre piu' /verso te, che limite non sei, / che sei essenza , e irranggiungibile》(その限界は限界ではない/ 精神がそれをいきなり越えさせる/ 精神は登り、つねに先に行く/ あなたの方へ、あなたは限界ではない、/あなたは本質で、到達しがたいもの)と書く。(ジョルジョ・モンテフォスキ)
(追記)
コピオーリの詩を、姉妹ブログ《イタリア現代詩の部屋》で紹介しました。どうぞご覧下さい。
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バニャスコ枢機卿は、イタリアの政治に関して、イタリア司教会議が声をあげることの必要性を主張した(8月24日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
イタリア司教会議議長であるバニャスコ枢機卿はリミニで開かれているClの会議で、カトリック教会が人々に支持されているのは、人々に近いからであるとし、イタリアの特別な歴史に彼らは責任を負っているとしている。
司祭が政治に介入するのは、彼らが政治の専門家であるからではなくて、人々に声を与えるためだとも述べている。
バニャスコ枢機卿は1943年生まれ、ジェノヴァの大司教である。
(お断り)
8月25日から29日まで、都合により、ブログの更新が不定期または不可能となります。あらかじめご了承ください。
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コッリエーレ・デッラ・セーラ紙上でオペラの演出をめぐる論争が起きている(8月23日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
ロリン・マゼールがザルツブルクでの演出が耐え難いと言ったのがきっかけで、フランコ・ゼッフィレッリが同意し、新奇な演出に対する攻撃対象として、グレアム・ヴィック、ボブ・ウィルソン、ロバート・カーソン、Claus Guth らが槍玉にあがった。
これに対しヴィックは、芸術の常なる変化を受け入れられないのはとても悲しいというコメントを出している。また、イタリアの問題は、政治であれ、音楽であれ、その他であれ、権力を握っているのが老人で、若い人がどんなに優れていても無視されていることだ、と痛烈に批判した。ゼッフィレッリは85歳である。
スカラ座の総支配人リスナーは、伝統的演出と新演出を分けるのは、間違った論じ方だとしている。つまり、一つ一つの演出はそれぞれ独自のものであるからだ。リスナーはヴィックやカーソン、ウィルソンらを擁護したうえで、その一方で、と断り、「1960年代、70年代、80年代にわたり最も意味深い演出をしたのは、ジャンピエール・ポネルだった。彼は伝統と詩を結びつけることができた。過去と未来、革新と保存は共存できるし、そうさせねばならない二つの魂だからだ」と付け加えている。
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イタリア経済は停滞しているが、農業分野は成長を見せている(8月22日、コッリエーレ・ディ・セーラ)。
第一四半期(最初の3ヶ月)が前の四半期(3ヶ月)に対し、6,9%の成長となっている。これは工業分野の0,06%の成長、サービス分野の0,2%と比較するとその大きさが良く判る。
この数字は Istat による速報値であり、確定値ではない。
他の分野が0成長またはマイナスとなっているなかで、この成長の秘密はどこにあるのだろう。Confagricoltura (Confederazione Generale dell'Agricoltura 農業総同盟)の会長フェデリーコ・セッキオーニによると、近年、農業の経営者が変わり、商業化したことがある。それが顕著なのは、ブドウーブドウ酒製造、ミルクーチーズ製造、菜園ー果物の分野である。
変化が遅いのは穀物の分野。
ヨーロッパの諸国と較べても、イタリアの1ヘクタールあたりの生産性は高い。アメリカの3倍以上で、イギリスの二倍、フランスやスペインより70%多い。これは品質と卓越性のゆえである。
イタリアは2つの点で、ヨーロッパの農業をリードしている。1つは、バイオロジカルな農業。約5万の経営者が100万ヘクタールで、171の原産地呼称または表示(prodotti a denominazione o indicazione di origine protetta)の農産物を産出している。ワインの場合、487のワインがDoc,Docg,Igtの指定をうけている。
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イタリアの刑務所に外国人の入所者が増えている(8月21日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
2007年に新たに入所した9万4000人のうち、4万5000人以上が外国人であった。ほぼ半数である。
2008年7月31日現在で、刑務所の人口は5万5250人。
1980年代には外国人の比率は5%であった。1990年代に15%に上昇し、2008年には38%にまでなっている。
2008年6月現在で、刑務所に入所している外国人は2万175人。そのうち、判決を待っている人が1万3184人、刑が確定している人が6991人である。
被拘留者(detenuti, 入所者)の出身地は123カ国にわたる。そのうち、上位7カ国で66%をしめている。
1 モロッコ
2 アルバニア
3 ルーマニア
4 チュニジア
5 アルジェリア
6 旧ユーゴスラビア
7 ナイジェリア
何の容疑で捕まったか(通告されたか、contestato)は、EU圏外の人と、EU内の人で比率が異なる。
EU圏外(extracomunitari)
麻薬 30,6%
対財産 24,7%
対人 17,2%
対行政 5,7%
外国人法 5,7%
武器 4,5%
売春 1,6%
EU圏内(そのうち、73%はルーマニア人)
対財産 44,1%
対人 25,8%
麻薬 7,5%
対行政 4,0%
武器 3,2%
売春 3,1%
公安 2,9%
ボッシ・フィーニ法にもとづき、国外退去にしうる入所者は4500人。2007年に国外退去のため出所したのは282人。2008年の同様の人は、6月までで158人、となっている。国外退去の実施の困難さ、不可能さが、刑務所の過剰人員の原因となっている。
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EUが実施した調査で、イタリアの若者は政治への関心が他国の若者より高いことがわかった(8月20日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
この調査は、EUがGallup 社に委託して、15歳から30歳のイタリア人1004人にインタビューしたものである。
政党の党員になっていますか?
イタリア 11%
ヨーロッパ 5%
国内政治に関心をもっていますか?
イタリア 33%
ヨーロッパ 19%
町や州のニュースに関心を持っていますか?
イタリア 20%
ヨーロッパ 14%
過去3年に投票しましたか?(全国選挙、州選挙、地方選挙、国民投票)
イタリア 76%
ヨーロッパ 62%
EUの政治に関心がありますか?
イタリア 17%
ヨーロッパ 11%
ここから家庭に関する質問となる。親から独立して住むのは、
その余裕がない
イタリア 49%
ヨーロッパ 25%
家族から離れないのは便利で、責任がなくてよいから。
イタリア 26%
ヨーロッパ 16%
親の家にいるほうがよいので、遅く結婚する
イタリア 13%
ヨーロッパ 7%
親やパートナーに経済的に依存している
イタリア 50%
ヨーロッパ 31%
奨学金で暮らしている
イタリア 2%
ヨーロッパ 7%
失業手当や社会保障で暮らしている
イタリア 0,2%
ヨーロッパ 5%
ここから将来への見通しについて
イタリア人は67%が将来は、生活が悪化すると答えているが、ヨーロッパ全体では、生活は改善するが46%となっている。
高い資格を持っていても、20年の間に、よい仕事が見つかるという保証はないと思う
イタリア 84%
今日よりも貧富の格差が広がっていくと思う
イタリア 83%
年金をもらう年齢が高くなっていくと思う
イタリア 80%
中国やインドとの競争のため、20年後は収入が減っていると思う
イタリア 66%
入手可能な各区の家を捜すのがより困難になると思う
イタリア 80%
社会保険は民営化すると思う
イタリア 63%
病人や高齢者の世話の責任は社会が負い続けるべきだと思う
イタリア 75%
イタリアの若者は、政治的関心は高く、親元からはなかなか離れず(離れられず)にいる、という構図が浮かび上がっている。見出しでは、Bamboccioni ma impegnati というフレーズが用いられている。
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戦後体制は変わったが、戦争中のポデスタ(ファシスト体制下での任命制の市長)ソチーニ・グェルフィは報復や復讐を受けることもなかった(コッリエーレ・ディ・シエナ、8月19日)。
彼は戦後、仕事に没頭した。彼は1945年ブルーコ地区のカピターノ兼レットーレ(rettore, 町内会長だが、他の地区はpriore という)となった。つまり、ブルーコというコントラーダ(地区)のパリオの最高責任者であり、通常の町内会長を兼任したのである。町内会長は1946年から1974年までつとめた。
1951年から1956年にも再びカピターノとなり10度のパリオを走り、1度優勝を勝ち取った。1955年7月2日のパリオで33年振りの歴史的勝利を飾ったのである。馬はSturla,騎手はチャンコーネ。彼は亡くなるまでブルーコの名誉町内会長であった。
しかしパリオで彼が歴史に残るのは、ポデスタ(市長)として、1940年6月18日に「戦争による特別状況」のためパリオの中止を命令したことである。
彼はまた、シエナの商工会議所の会長でもあった。またシエナのロータリー・クラブの創設者でもあり、1970-71年会長をつとめた。いくつかの著作もあり、その1つは Uomini e Contrade di Siena. Memoria e vita di unatradizione cittadina という本に収められている。
1976年に、シエナ市の栄誉賞である Magia d'oro を授与されている。
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シエナ最後のポデスタ(ファシズム期の任命制の市長)ルイージ・ソチーニ・グェルフィの生涯の事績の続きである(コッリエーレ・ディ・シエナ、8月19日)。
第二次大戦中、シエナは大きな不安の中で過ごしていた。結果的には、いくつかの例外的な事件を除いては、大きな被害を被らずに過ごせた。
この幸運の立役者は3人いる。大司教マリオ・トッカベッリ。県知事ジョルジョ・アルベルト・キウルコ、そして市長ルイジ・ソチーニ・グェルフィである。
県知事キウルコは、ポデスタの合意のもとに、シエナを《Citta’Ospedaliera》(病院都市)とし、歴史的中心街区が英米軍から爆撃されることを回避したのである。
そしてその後の内戦の時期、シエナにとってもイタリアにとっても暗く悲しい時期であったが、彼はシエナの人々に呼びかけた。信心深い彼は、ドゥオーモの誓願の聖母への行進を組織し、誓願の聖母にシエナ市の鍵をゆだね、テ・デウム(神の賛歌)を歌った。1944年6月18日のことであった。大勢の人が行進に参加した。この事実はドゥオーモ脇のプレートに刻まれている。
また、ソチーニ・グェルフィは、キウルコ県知事の保証を得たうえで、Guardia civica armata (武装市民警護隊)を組織した。これは全く、非ファシスト的組織で、レリオ・バルバルッリ将軍にその指揮がゆだねられた。
1944年7月3日、シエナに連合軍が入城した時、ルイージ・ソチーニ・グェルフィはパラッツォ・コムナーレの机にすわっていた。彼はすでに町に進軍中のフランス軍をコムーネに迎えいれることを拒絶し、パラッツォの大門を閉じて、黒シャツ(ファシストのシンボル)を着て、鍵を連合軍の司令官に渡した。この振る舞いは、彼自身によって何度も思い起こされたが、ファシズムとその理想への忠誠を示したのだとしている。
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シエナ最後のポデスタ、ルイージ・ソチーニ・グェルフィが亡くなった。102歳だった(コッリエーレ・ディ・シエナ、8月19日)。
ポデスタというのは、ファシズム期の任命制の市長で、彼はファシズム期におけるシエナ最後の市長(1938-1944)であった。
彼の愛するコントラーダ、ブルーコがパリオで勝利をおさめたのを見て数日後の死であった。102歳で、死の数日前まで活動していた彼の生涯はシエナの20世紀を写す1つの鏡となっている。
ルイージ・ソチーニ・グェルフィは1906年10月22日、シエナで貴族の家に生まれた。
大学で工学を学んだ。熱心なカトリック信者で、熱烈なファシズム支持者であった。
1938年、弱冠32歳で、ファビオ・バルガリ・ペトルッチ、マリオ・タディーニ・ブォニンセーニの後をついで、ポデスタ(任命制の市長)となった。市長としての業績で最も重要なものは、統帥ベニト・ムッソリーニとシエナ市を仲介して、モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行(MPS)を守ったことである。
当時の政府は、銀行改革を通じ、シエナ市によるMPS銀行支配を取り除こうとしていた。この銀行改革に反対して、ソチーニの前任者二人は辞任していたのである。
ソチーニは、ここで巧みな政治家、外交手腕を発揮し、妥協案を考えた。モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行がシエナに残るかわりに、公法上の信用機関(Istituto di credito di diritto pubblilico) に変わり、8人の代表(Deputazione) を置くこととした。それまでは、独占的にそれはコムーネ(シエナ市)のものであったのだが、それをコムーネによる任命の者、ファシスト政府による任命の者、県の任命による者に分けたのである。
(以下、2に続く)。
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ヴァレリオ・マルキ著 《Il serpente biblico》(聖書の蛇)が出版された(Il Sole 24 Ore, 8月17日)。
この本は、トリエステの弁護士で、国会議員(1892-1913)で、ユダヤ人のリッカルド・ルッツァットの伝記である。
彼はリソルジメントに深くかかわり、反聖職者至上主義(anticlericale, 要するにカトリック教会の権威に反対の立場)だったため、敵から《Il serpente biblico》(聖書の蛇)という侮蔑的なあだ名をつけられたのである。
ルッツァット家は古いユダヤの家系で、もともとは、アシュケナージ(ドイツ系ユダヤ人)である。ヴェネトやフリウリに15世紀から住みついた。
父マルコは、リソルジメントの考えを支持し、オーストリアの牢獄に入ったこともある。兄弟のアドルフォはサンマルティーノの戦い(1859年の対オーストリア戦争、イタリア第二次独立戦争)に狙撃兵として参加し、リッカルドもわずか18歳で、ガリバルディの1000人隊とともにクヮルトから出撃した。
Irredentista(未回復地併合主義者)で、フリーメイソンで、急進主義そして共和主義者で、1911-12年のイタリアのリビアに対する武力干渉を支持し、第一次大戦には志願兵となり、70歳で、銀メダル勲章を授与されている。
ルッツァットは、イタリアのユダヤ人のリソルジメントにおけるパトスを集約しているともいえる。数々の輝かしさの反面、多少の影もある。ローマで司法省の建物が建設された時に、落札業者から謝礼をもらったと言われている。
もっと大きな政治のゲームに巻き込まれていた可能性もある。ともかく、1913年には国会議員辞任に追い込まれた。
1923年に亡くなる数年前に、彼はムッソリーニに近づいた。1919年3月23日にミラノのサン・セポルクロ広場で Fasci italiani di combattimento が誕生したときには参加していた。
この本は大変丁寧に、時には丁寧すぎるほどに、文献調査がなされている。
ルッツァットは、確信的な反教権主義者で、彼の激しい論説は、敵からも激しい反応を引き起こした。フリウリのカトリックの新聞から攻撃されたのである。時は non expedit (イタリア・カトリック教徒の国会議員選挙投票および立候補が、教皇により禁じられていた)の時代であった。
ユダヤ人国会議員の積極的行動は古い偏見を刺激した。こうして、リッカルド・ルッツァットは《Il serpente biblico》であるという、政治的な悪意にみちた攻撃が生じた。
本は、Valerio Marichi 《Il serpente biblico. L'on.Riccardo Luzzatto in Friuli fra culto della patria, antisemitismo e politica (1892-1913)》, Kappa Vu, Udine, 494 ページ、22ユーロ。
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パリオに関するエピソードをいくつか紹介する(ラ・ナツィオーネ、8月15日)。
長いパリオの歴史では、まれにではあるが、ゴールが接戦で、現在であれば写真判定が必要になる僅差のことがあった。
1713年8月のパリオでは、タルトゥーカ(亀)とオンダ(波)地区の馬が接戦を演じた。
このパリオは、この当時の習慣にしたがい前のパリオで勝ったコントラーダ(地区)が主催し、即ち、キオッチョラ(カタツムリ)地区が主催したパリオであった。また、現在とは異なり、14のコントラーダが参加していた。
最初にゴールに達したのはオンダの馬と騎手だったが、そこで止まってしまい、判定者のパルコ(Palco dei Giudici, 写真)までこなかった。一方、タルトゥーカの馬はオンダを抜き去った。
すぐに二つのコントラーダの間で、勝利をめぐって争いが起こった。問題を解決するのを待って、パリオ旗はどちらにもわたされず、プロヴェンツァーノ教会へ運ばれた。
子細が検討された結果、その時から、勝った馬は必ず、判定者のパルコの前を通過せねばならぬことが決定された。
この時は、パリオから約1ヶ月後、正確には、9月10日に、例外的に、パリオ旗は、賞金(当時の金で40ターレル)とともに、タルトゥーカとオンダで折半することになった。両コントラーダはそのパリオ旗を、サン・ジュゼッペ教会に寄付することとした。
その翌年1714年のパリオでは、7月2日のパリオではタルトゥーカが勝ち、8月16日のパリオではオンダが勝った。
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ローマ教皇ベネデット16世は、あらたな人種差別主義(razzismo) への誘惑に抵抗するよう呼びかけた(8月18日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
夏の教皇の避暑地カステルガンドルフォで、信者に呼びかけた。
このところ、ベルルスコーニ政権とパオロ修道会の編集する雑誌「ファミリア・クリスティアーナ」の間で、治安やロム(ジプシー)対策をめぐり論争が繰りひろげられていた。
ヴァティカンの幹部は、「ファミリア・クリスティアーナ」誌はヴァティカンの路線を表明するものではない、と距離をとり、与党から歓迎された。
そこへ、教皇は、「複数の国で、新たな差別が出現している」ことへの懸念を表明したのである。「人種差別への誘惑に」負けず、「もてなしの義務を尊重する」よう求めた。
カトリック教会の移民に対する立場は、ラッツィンガー教皇から直接表明された。預言者イザヤおよび伝道者パオロの言葉を引用し、カトリック信者の重大な責任として、「すべての人を歓待する家」であることを求めた。
また、「人類にとって重大な進歩の1つは、まさに人種差別の克服」であるとし、あらゆる口実をしりぞけた。「残念ながら、人種差別は、複数の国で、新たに懸念される状態を示している。それはしばしば、社会や経済の問題と結びついているが、それは人種差別を正当化する理由には決してなりえない」。
教皇は、キリスト教徒にとってもてなしの義務とは、神の言葉であるとしている。イザヤの言葉(わたしの神殿は、全ての民の祈りの家と呼ぼう)を引用し、また聖パオロが異教徒にも伝道し、「救済の普遍性」をなしたことを強調した。
これらの言葉は現在の論争に引き寄せて解釈されうるものだが、ヴァティカンからは、福音書を読んだコメントであり、政治論争からは独立したものである旨が説明されている。
「ファミリア・クリスティアーナ」誌とトーンは異なるものの、教皇が、移民問題に関して、あらゆる人種差別を拒絶していることを示したものと言える。
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北部同盟(Lega Nord)のリーダー、ウンベルト・ボッシが固定資産税(Ici, Imposta comunale sugli immobili) の復活を唱え、与党内に嵐を巻き起こした(8月17日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
ボッシはIci のみが連邦主義的な税だとしている。
これに対し与党内では、特に国民同盟(AN)からブレーキがかかった。
民主党は、与党は混乱状態にあるとして非難している。
これに対し、ボッシは、「現在は市民は、12,13種類の税金を払っている。将来は、地方自治体の各レベルに1つずつ払うようにしたい」と修正した。つまり、州(regione)に払う税、県(provincia)に払う税、市町村(comune) に払う税(imposta) である。
ボッシの目標は、各自治体が財政的な独立性を持つことにある。
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パリオの情報は、時々刻々と流れるが、その主なものを紹介する。
まず、新聞では、トスカーナを中心とした全国紙である La Nazione. そして、シエナの地元紙である Corriere di Siena. この二つは、日刊紙としてはパリオに関して、他の追随を許さない存在である。
つぎにテレビ。テレビでは、普段はトスカーナの話題を取り上げているが、パリオが近づくとパリオ専門のテレビ局と化す Canale 3 と Canale Civico Siena(CCS)、および Siena TV がある。
そのうち、Canale 3 は、パリオ中継をはじめて今年が30周年という老舗で、最もシエナ人に見られている。ちなみに、パリオの当日の催しはRAIでも中継される。通常はRAI2で、中継されるのだが、2008年8月は、オリンピックの開催期間と重なっており、Rai 2 は、オリンピック中継でふさがっているため、Rai 1で中継放送がなされた。Rai での中継は、全国放送であり、パリオのことをよく知らない人も対象とした放送であることは言うまでもない。
それに対し、Canale3やCCSでは、過去のパリオの映像や、インタビュー、引退した騎手をまじえた座談会などが放送されるし、プローヴァやパリオの映像は何十回、何百回と流される。
しかし、もっとも熱い情報は、コントラーダ(地区)で、つまりコントラダイオーリ(コントラーダのメンバー)の間で交わされている。
前述の映像や文字情報を通じて、どの馬が強い、どの騎手が優秀であるといった評価がコントラダイオーリの間に形成されていくが、さらにコントラーダ同士の、カピターノ間の連携、敵対、騎手同士のある種の人間関係などが、語られる。
その中で、自分のコントラーダの馬、騎手への期待(および敵対するコントラーダが勝たないようにとの願い)が高まっていくのである。
パリオをめぐる情報としては、パリオが終わってしばらくすると、写真集のような雑誌やヴィデオも発行される。
それとは別に、パリオ一般やコントラーダの歴史を論じたものは、シエナのどこの書店にいっても数十冊のレベルで入手できるし、いわゆるパリオ関連の本は数百冊のレベルなのか数千冊のレベルなのかは、想像もつかない。シエナでは、毎年、新たなパリオ本が複数、出版されているのである。
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8月16日、時代行列のあと、午後7時すぎからパリオのレースが行われ、ブルーコ(芋虫)地区が勝利をおさめた。
スタートはリンコルサのドラーゴ(龍)の馬がリードしていた。リンコルサというのは、パリオのスタートは、二本の太綱の間に9頭の馬が順にならび、10頭目がそこに入った瞬間に、前の綱を落としてスタートとなるのである。その10頭目のスタートの瞬間を決定する馬をリンコルサという。
ドラーゴはリンコルサの勢いを利用して、サンマルティーノのカーブをトップで回ったのだが、カザートのカーブで勢いあまって騎手が落馬した(写真)。
その後は、オーカ(鵞鳥)が、トップを率いていたのだが、三周目(最終周)でブルーコの馬が抜き去った。
騎手は、ジュゼッペ・ゼッデ通称ジンジッロ、馬はエリジル・ログドーロ。
ブルーコ地区は、2005年7月以来の勝利。
スタートには約1時間かかった。3度の無効のスタートをふくめ、馬が指定通りの順番に並ばなかったり、リンコルサの馬がなかなかスタートを切ろうとしなかったためである。
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教皇庁の記者会見室長のフェデリーコ・ロンバルディ神父(写真)は、「ファミリア・クリスティアーナ」誌は、ヴァティカンの方針を示す雑誌ではないし、イタリア司教会議の方針を示す雑誌でもないと、断った(8月15日、コッリエーレ・ディ・セーラ)。
「ファミリア・クリスティアーナ」誌は、たしかに、カトリック教会の機関誌というわけではなく、聖パオロ修道会の編集によるものである。
このところ、「ファミリア・クリスティアーナ」誌は、ベルルスコーニ政権の政策がファシズムを想起させるとして批判を強めている。
同誌は、60万部以上の発行部数をもち、各教区に届けられている。編集長のドン・ショルティーノは、54歳で、1999年から現職。
カトリック教会関係の他の雑誌・新聞には、次のようなものがある。
Le copie:57万3973部。サン・タントニオのメッセージを広める
Avvenire: 10万4117部。イタリア司教会議(Cei) の日刊紙。
L'Eco di Bergamo: 5万5214部。地域の司教区の日刊紙。
Jesus: 3万598部。もっとも進歩的。サン・パオロ・グループの月刊誌。
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8月14日午後、大蝋燭の行進がシエナで実施された(コッリエーレ・ディ・シエナ、8月15日)。
行進は、サンジョルジョ教会を出発して、ドゥオーモへとむかう。
17のコントラーダすべてが参加し、各コントラーダは4人の子供が担架状のものに蝋燭をのせて、ドゥオーモに運ぶ。蝋燭の形状や本数はコントラーダの自由な選択にまかされている。
蝋燭を運ぶ子供たちは、みなコントラーダの時代衣装をまとっている。
今年は新たな趣向が加わった。コムーネ(シエナ市)が献上する大蝋燭をカロッチョと呼ばれる牛車(2頭の牛)が引くことになったのである。
この儀式は、リソルジメントの直後に中断されて、60年後の1924年に復活した。当時の大司教プロスペロ・スカッチャにより復活したのである。
この儀式のための委員会(Comitato)があるのだが、その構成は、俗人(laico, civico) が半分、聖職者(ecclesiale)が半分となっている。このバランスをとることが肝心であり、また運営のむずかしいところでもある。
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14日の午後7時すぎに、カンポ広場で実施された第三試走で、モントーネ(羊)地区の騎手が落馬し、馬場の状態が議論になっている(8月15日、コッリエーレ・ディ・シエナ)。
落馬したのは、ルーカ・ミニジーニ通称デである。馬はコーチ。パリオのコースには難所が2つある。パラッツォ・プブリコにむかって左側のカーブがサン・マルティーノ、右側のカーブがカザートでどちらも角度がきつい。このところシエナは湿度が高く、土(トゥッフォと呼ばれる特別の土が、パリオの期間だけ、カンポ広場のコースに敷き詰められている)も湿り、滑りやすくなっていたと考えられる。
馬も横転したのだが、その起き上がって、元気に三周を走りきった。
第三試走で勝ったのは、ドラーゴ(龍)。スタート(モッサ)では、トッレ(塔)の騎手アンドレア・マーリとジャ・デル・メニールが見事なダッシュをみせ、パンテーラ(豹)のイストリチェッドゥは三度の試走とも良いスタートを切った。
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シエナのパンテーラ地区のカピターノ、モーリ=ポメッティは辞意を撤回した(8月15日、コッリエーレ・ディ・シエナ)。
13日から14日にかけての深夜、パンテーラ(豹)のカピターノは辞意を撤回した。
ことの始まりは、パンテーラがイストリチェッドゥという馬を引き当て、その馬に対する評価が高い人もいたのだが、パンテーラが抱えていた騎手アンドレア・マーリは気にいらず、トッレが引き当てた馬ジャ・デル・メンヒールに騎乗したいと考え、それをカピターノが了承したことだった。
一部のコントラダイオーリ(コントラーダのメンバー)に強い不満を引き起こし、カピターノの決定に対する反対が、カピターノの辞意表明につながった。
パリオにおいてはカピターノは全権を掌握している。
カピターノの辞意撤回の結果、第二試走では、パンテーラの騎手は、ヴァルテル・プッシェッドゥ通称ビギーノになった。この騎手は、カピターノの選んだ騎手であり、モーリ=ポメッティは優秀な騎手と考えている。
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ヴァティカンの週刊誌ファミリア・クリスティアーナは、ベルルスコーニ政権を厳しく批判した(8月14日、コッリエーレ・デッラ・セーラおよびレプッブリカ)。
編集長アントニオ・ショルティーノは、ファシズム復活の危険さえあるとしている。
最初の批判は、治安対策で、軍隊を町に配置することだった。
これに対し、首相補佐官のカルロ・ジョヴァナルディは、激しく反発し、イタリアで、ファシストなのは、「ファミリア・クリスティアーナ」の棍棒でたたく調子だけだと返した。(棍棒でたたく人(manganellatori)はファシズムの暴力の象徴的な例である)。
ファミリア・クリスティアーナは、ベッペ・デル・コッレ署名の社説で、まずロムの子供の指紋をとろうとしたことを非難した。また「われわれは、cattocomunisti (カトリックのコムニスタ)でもないし、criptcomunisti (隠れコムニスタ)でもない。批判はたくさんだ」としている。
これに対し、ガスパッリやラ・ルッサはさらに反発している。
「ファミリア・クリスティアーナ」誌は、聖パオロ修道会(Paolini)の編集する週刊誌で、ドン・ジャーコモ・アルベリオーネによって1931年に創刊された。
1954年からはドン・ジッリが編集をつとめ、発行部数100万部を越えた。1980年からはドン・ゼーガが編集長となり、開かれた方針で、様々な問題を論じたが、ルイーニに批判され、1998年に辞任を余儀なくされた。
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8月13日午後7時過ぎ、第一試走がカンポ広場で行われた(コッリエーレ・ディ・シエナ)。
第一試走は、馬が選ばれた直後なので、騎手が誰になるかも注目される。
アクィラ(鷲):パリデ・デ・マウロ、通称ティブルツィ(Paride De Mauro detto Tiburzi)
タルトゥーカ(亀):ルイジ・ブルスケッリ通称トレッチョリーノ(7月のパリオで勝った騎手である)
トッレ(塔、象のマーク)アンドレア・マーリ通称ブリオ
ニッキオ(貝殻):アルベルト・リッチェーリ通称サラッソ
パンテーラ(豹)フランコ・カズ通称スピリト
フランコ・カズは、1996年8月のパリオで、パンテーラのRe Artu という馬に乗ったが、モッサ(スタート)の時に、ライヴァル・アクィラの騎手の上着をつかんで邪魔をした。このため、20パリオ(10年間)の出場停止という異例の措置を受けた騎手である。この出場停止は2年前にやっと解除された。
セルヴァ(森、サイのマーク):アントニオ・ヴィレッラ通称ズガイバッレ
オーカ(鵞鳥):ジョヴァンニ・アゼーニ通称ティッティア
ブルーコ)(芋虫):ジュゼッペ・ゼッデ通称ジンジッロ
ヴァルディモントーネ(羊):ルーカ・ミニジーニ通称デ(De’)
ドラーゴ(龍):ジョナタン・バルトレッティ通称スコンピリオ
ただし、8月16日の朝にコムーネに正式の届けをするまで、騎手は何人でも交代することができる。
第一試走は、ドラーゴが勝った。
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シエナのパンテーラ地区のカピターノ、アンドレア・モーリ=ポメッティが13日午後、辞意を表明した(コッリエーレ・ディ・シエナ、8月14日)。
馬の抽選・引き渡し直後のカピターノの辞任は誰の記憶にもない。極めて異例のことだ。
パンテーラにはイストリチェッドゥという馬が来た。パリオに関しては、デビュー馬であるが、実力はあるとの声もあった。しかし、パンテーラの騎手アンドレア・マーリにはこの馬は気に入らなかったようだ。
その間、トッレ(塔)地区からの要請をうけ、アンドレア・マーリはトッレの馬Gia' del Menhir に騎乗することが決まる。
パンテーラの騎手としてはヴァルテル・プッシェッドゥが来たのだが、この騎手交代がコントラダイオーリ(コントラーダの住民)には気に入らなかった。一部の人は反対であることを示した。
この事態をうけて、カピターノ、モーリ=ポメッティは辞意を表明したのである。13日の午後7時過ぎに実施された第一試走には、フランコ・カズが騎手をつとめた。
13日、午後10時過ぎから、パンテーラ地区では臨時集会が開かれ、カピターノの去就が論じられた。
パリオの規定は、明快である。第14条に、カピターノが欠けた場合には、プリオーレ(地区の会長)が代わることができ、プリオーレも欠けた場合には、代行(Vicario, プリオーレの補佐役)が代わることが出来る、とある。
現在パンテーラ地区の手持ちの騎手は、ヴァルテル・プッシェッドゥとフランコ・カズであるが、コントラダイオーリのお気に入りとは言えないようだ。
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カピターノにより、8月のパリオへの出場馬が10頭に絞られた後、抽選で10頭の馬は10のコントラーダに割り当てられた。
結果は以下の通り。
セルヴァ(森、サイのマーク)Giordhan
パンテーラ(豹)Istriceddu
ドラーゴ(龍)Fedora Saura(唯一の牝馬)
ヴァルディモントーネ(羊)Choci
ブルーコ(芋虫)Elisir Loqudoro
トッレ(塔、ゾウのマーク)Gia’ del Menhir
タルトゥーカ(亀)Elimia
オーカ(鵞鳥)Montalbo
アクィラ(鷲)Ilon
ニッキオ(貝殻)Guess
抽選で良い馬が当たったと歓びをあらわにしたのは、ドラーゴ、トッレ、タルトゥーカの3コントラーダ(地区)。
パンテーラ、アクィラ、ニッキオの3コントラーダ(3地区)は、パリオ初出場のデビュー馬があたった。
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8月13日は、シエナのパリオでトラッタと呼ばれる日で、その後、第一試走が行われる。トラッタとは抽選の意味であるが、4つの段階に分かれる。
1.馬がカンポ広場に登場する
2.馬が数頭ずつにわかれて、試走をする。これがバッテリエと呼ばれるもので、今回は7頭ずつ、5つの組に分かれ、35頭が走った。最後の組(第6組目)は、カピターノの要請により、前の5組から選ばれた馬が、二度目の走りを見せることとなる。
3.その35頭のなかから、カピターノの話し合いで10頭が選ばれる。
4.10頭の馬が、それぞれのコントラーダに抽選で割り当てられる(l'assegnazione dei cavalli).
今朝の朝刊では、38頭がトラッタへの参加を認められたとされていたが、実際には35頭が走った。
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8月14日の午後に、大蝋燭の行進が行われるが、これはかつては60年間にわたり中断していた(8月12日、コッリエーレ・ディ・シエナ)。
パリオの行列といえば、Corteo storico (時代衣装をまとった行列)が有名であるが、それとは別に8月14日、昇天の聖母(Maria assunta) に大蝋燭を捧げる行列がある。
サン・ジョルジョ教会を出発し、お小姓姿の若者が、担架の上に数本の大きな蝋燭をのせて、ドゥオーモまで運び、聖母に献上するのである。これを Corteo dei ceri e dei censi または Processione dei ceri e dei censi (大蝋燭と献上金の行進)という。
これは実は、中断された時期があって、1924年に、60年間の中断のあと復活した儀式である。リソルジメント後の世俗化、非宗教化の熱の高まりをうけて、中断していたのである。それを大司教プロスペロ・スカッチャが復活させたのである。
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8月16日のパリオ旗のお披露目が、10日、シエナのパラッツォ・プブリコの中庭(Cortile del Podesta')であり、響き渡る拍手につつまれた(コッリエーレ・ディ・シエナ,8月11日)。
制作者のマリオ・チェロリ(写真)は、アブルッツォ出身で、現在はローマ在住。チェロリは彫刻家として名高い。
聖母の頭の部分は、金で、その周りにコントラーダの紋章が光線のごとく飛び出しているのは銀である。写真ではわかりにくいが、金と銀がふんだんに使われている。
その下に大胆に傾斜したカンポ広場は小麦畑と化しており、さらにその下に後ろ姿の黒い馬がいて、金色のしっぽが揺れている。
市長マウリツィオ・チェンニは、チェロリが制作し、サン・ドメニコ教会の前に置かれた巨大な馬のブロンズ像を、ずっとそこに残すようチェロリに求めた。
今回のパリオは破格のところがある。すなわち、8月のパリオ旗は、聖母の全身像を描くのが決まりであるが、今回のは胸像であるからだ。7月のパリオ旗の聖母は胸像というのが決まりである。
にもかかわらず、嵐のような拍手で迎えられた。この聖母像は、明らかにシエナのドゥオーモの誓願の聖母へのオマージュである。
(訂正)
当初、マリオ・チェローリと表記していましたが、ニュース番組などでの発音を聞き、チェロリと訂正します。
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パリオでは、勝利を願って、あるいは敵の不運を祈って、呪術的なことも行われる(8月10日、コッリエーレ・ディ・シエナ)。
マッシモ・ビリオルシはシエナの魔術的な場所についての本の仕上げにかかているところで、9月に出版予定である。
以下、記者との対話。
マッシモ、なぜ、パリオと魔術の結びつきはこれほどつよいのですか?
「幸運を追求するという精神なんだね。マンジャの塔が建てられた時に、その基礎には《salvare dalle tempeste e dalle saette》(嵐と稲妻から護り給え)と刻まれた石が置かれたことを思い出してみるとよいだろう。聖なるものとそれを汚すものの双方が、パリオに本来そなわっている。コントラーダ同士のライバル関係は、それを一層強化するんだ」
パリオによって、魔術への依存はより強まるようですね。
「ライバル同士が出るとね。魔術は、勝つためだけでなく、相手を負けさせるためにも用いられる。可能性がみな同じくらいだと余計、超自然に頼るんだ。こういう場合、パリオで勝つには、より運が重要になるからね」
そういう儀式にとって選ばれた場所はあるのですか?
「シエナの歴史では、呪術的な場所というのは存在する。たとえばモンタペルティ(1260年にシエナとフィレンツェが戦い、シエナが勝利をおさめた戦場)だ。6月28日と29日の間の夜、8月12日と13日の間の夜には、あそこに人が集まるんだ」
みんなが同じ場所に行ったら、かち合うことも起こるのでは?
「人と人が会わなくても、ちょっと前に儀式を行った痕跡を見ることはあるね」
他のコントラーダ以上に、超自然に頼るコントラーダというのはありますか?
「それは判らない。むしろ共通してみられることだ。おそらく、勝利から長らく遠ざかると、幸運に取り入って、悪運を追い払いたいという気持ちが高まるだろう」
どうやって専門家を捜し出すのですか?
「パリオ専門の魔術師というのがいるわけではない。普通はカードを読める人間が選ばれ、その結果が、馬をとりに行く人間に伝えられる。専門家はいないので、予言の形が向いているんだ。適切な魔術師を捜し出すことが必要で、その人が馬を捕りに行く人に、お守りをくれる」
あなたもしましたか?
2005年に馬を取りにいく係になったので、一人で全部やった。勝利は得られなかったが、ベリオを引き当てた。1986年には、20年も勝っていなかったので、友達と一緒に、ヴォルテッラの魔術師のところにいって、あるモノをもらい、本当に勝利を得た。
怖くないですか?
怖くなんかないよ。楽しんで、興味を持ってやるんだ。友達と一緒にだからね。悪いことをするわけじゃないし、むしろ笑って、あとでは思い出になる。
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アンドレア・ピニンファリーナの事故死にともない、会社の代表は、弟のパオロが受け継ぐことになりそうだ(8月9日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
アンドレアの葬儀は、8月11日、トリノのドゥオーモでセヴェリーノ・ポレット枢機卿により執り行われる。
翌12日には、ピニンファリーナ社の理事会が開かれる。ここで、アンドレアの弟のパオロ現副会長が、会長に選出される見通しだ。
パオロは、アンドレアの敷いた路線を継承するとしており、ピニンファリーナ社の国際化、1億ユーロの増資は実現する予定。
1億ユーロの増資により、現在の一族の持ち株比率は54,9%から、下がる。新たなパートナーとして、アルベルト・ボンバッセイや、ピエロ・フェッラーリ(フェッラーリの創設者の息子)が加わることになる。また海外勢では、ヴィンセント・ボッロレ(電気自動車を共同で企画している)やインドのタータが参入する予定だ。
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ピニン・ファリーナの社長アンドレア・ファリーナが、交通事故で死亡した(8月8日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
アンドレア・ファリーナ(51歳)は、スクーターに乗って出社途中、午前8時すぎに、トリノの周辺地区で事故にあった。
相手は、フォードに乗った老人だった。
ピニン・ファリーナ社はカロッツェリア(自動車のデザインを専業とする会社)で、1930年にバッティスタ・ファリーナ(通称ピニン)により設立された。
ピニン・ファリーナのデザインした自動車は、映画でも活躍している。1954年には『サブリナ』に、1962年には『追い越し野郎』にアウレリアB24が、1967年には『卒業』にアルファ・ロメオ1600スパイダーが登場している。
アンドレア死亡のニュースの後、株式市場では同社の株は20、59%も上昇した。この急激な上昇をいぶかる声も聞かれる。
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スカヨーラ経済発展大臣は、ガソリン価格はまだ値下げの余地があると主張した(8月7日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
クラウディオ・スカヨーラ(写真)は、現在の状態では、ガソリン1リットルあたり0,8から1,8セント(centesimi, 100分の1ユーロ)値下げの余地があるという。
原油価格はピークの7月11日の147ドルから、8月6日には118ドルへと29ドル下がっている。
原油の価格下落に比して、ガソリンやディーゼルの価格の下落は遅すぎるというのが消費者団体の主張である。
また、他のヨーロッパ諸国と較べて、0,8セント高いというのが消費者団体の調べであるが、他のヨーロッパ諸国では、セルフ・サーヴィスが90%近くに達しているのに対し、イタリアでは、40%にも達していない。
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バリトン歌手 レナート・ブルゾンのスカルピア上演回数が150回を越えた(8月7日、レプッブリカ)。
ブルゾンは、パドヴァで1936年生まれ、1961年にス歩レートでデビューした。
現代の最良のバリトンの一人と考えられているが、上演回数が傑出している。47年のキャリアで、プッチーニの《トスカ》のスカルピア役は125回を越えた。
今回はシチリアのタオルミーナのテアトロ・アンティーコで8月10日に出演する。
共演者はマルティーナ・セラフィン(トスカ)、マルチェッロ・ジョルダーニ(カヴァラドッシ)、ユージーン・コーン指揮である。
以下、インタビュー。
スカルピアとしてデビューしたのはいつですか?
《1976年にパルマのテアトロ・レージョで、カバイヴァンスカ、カレーラスと共演したのが最初だ。でも、自分はまだ十分成熟していないと考え、やめた。鬚のこともあったしね》
というのは?
《スカルピアは鬚を生やしていてはいけないんだが、剃る気がしなくてね。ストレーレル(演出家)やその他の人との議論が新聞にまで出てね。みな、剃るべきだというんだ。鬚を剃るくらいなら、降りたかったよ。で、劇場支配人が言ったんだ。「私にとっては鬚はあっても無くてもよい。重要なのは君が出ることだ」。それで引き受けたよ》
スカルピア役の気に入っているところは?
《悪魔的な性格だ。冷酷で、計算づくで、『オテッロ』のイヤーゴとは全然違う。イヤーゴは、純粋な楽しみのための悪なんだ》
ゴッビは圧迫感のある脅迫的な男爵でした。ライモンディは、高圧的な迫害者でした。あなたのスカルピアはどんなものですか?
《サルドゥが劇に書いた通りだ。腹黒い貴族。優雅にふるまい、そんな紳士的で洗練された物腰から想像できないような腹黒さゆえによけい憎々しい》
観客としては、誰のスカルピアが好きですか?
《疑いなく、ティト・ゴッビのスカルピアだ。初めて見たとき、魅せられてしまった。深刻で、しつこく迫ってくるが、決して下品ではない。彼から、インスピレーションを得ている》
カバイヴァンスカのあと、多くのトスカがあなたに迫られたわけですね。
《僕はいつも素晴らしい共演者にめぐまれてきた。コエリョ、中国の Hui He, マルティーナ・セラフィン、素晴らしい声だ。過去には、レナータ・スコット、フランチェスカ・パタネなどがいるが全部思い出すには妻が必要だ》
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イタリアでの労災の死者数は、殺人の数を上回っている(8月6日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
2006年の殺人の被害者は663人。労災による死者(morti bianchi)の数は、2006年が1341人。2007年が1170人である。
他のヨーロッパ諸国では、労災の死者数は、2005年時点で、フランスが593人、イギリス209人、ドイツが678人である。
殺人による死者数は、
イタリア
1995 1042人
2000 818人
2006 663人
フランス
1995 1336人
2000 1051人
2006 879人
イギリス
1995 909人
2000 1002人
2006 901人
ドイツ
1995 1373人
2000 960人
2006 727人
となっている。
民主党のカルロ・レオーニは、軍隊を工事現場などの労働現場に送って、監督したほうがよいとの見解を示した。
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詩人ネーロ・リージとアンドレア・ザンゾットが主演のドキュメンタリー映画「可能な関係ー二人の詩人、二つの声」(Possibili rapporti-Due poeti, due voci) がロカルノ映画祭に出品される(8月6日、レプッブリカ)。
プロデューサーはマルタ・ドンゼッリとグレゴリオ・パオネッサで、文化財・文化活動省およびヴェネト州の支援をうけている。
ネーロ・リージはこの映画の監督であるが、1920年生まれの詩人で、ディーノ・リージの弟。アンドレア・ザンゾットはヴェネト州トレヴィーゾ県のピエーヴェ・ディ・ソリーゴに居をかまえる87歳の詩人だ。
映画はザンゾットの地元での二人の会話が中心。
ロカルノ映画祭では、リージの修復された映画「統合失調症患者の日記」(Diario di una schizofrenica, 1968) も上映される。
リージは、何年も前から今回のドキュメンタリー映画の企画をあたためていた。「以前から、われわれは互いに本を贈ってきた。とても異なっているけれど、尊敬しあっているんだ。僕はレアリスタで、彼は難解。彼はペトラルカやタッソの伝統を革新する詩人で、僕は独立派で、ヴィットリオ・セレーニに《導かれた》ロンバルディア派にも認められたことがないんだ。ルチャーノ・アンチェスキは僕をそこに入れたけど」
「彼(ザンゾット)は、自分の領土との結びつきがとても強いけど、僕はローマともミラノともうまく行ってない」
ドキュメンタリーでは、最初のぎこちなさから、親密になっていくのに立ち会っているかのようだ。
「二人とも詩人だけれど、会話は詩についてというよりは、人生についてなんだ。でも変わりつつある郷土についても描いている。ピエーヴェ・ディ・ソリーゴには、1つの広場に8つも銀行がある。イタリア社会の不健康な状態をしめす指標だね。僕らはデカダンスを生きているんだ」
ザンゾットは語る「歳月は流れたが、書くという欲望は過ぎ去らない。たしかに肉体的な疲労はある。しかし、たとえ手が少しばかり拒絶しても、まだ書くことは出来る。自筆原稿(autografo) をつくることが出来るとでも言っておこう」。(autografo は自筆原稿と、サインの両方の意味をかけている)。
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イタリアの下院は、リスボン条約を満場一致で可決した(8月1日、レプッブリカ)。
下院は、ヨーロッパ統合を推進するリスボン条約を551票の賛成、反対なしで可決した。
ナポリターノ大統領は、イタリア議会にとって名誉なことだと歓迎している。
アイルランドでは6月13日の国民投票で、リスボン条約は否決された。
イギリスでは、7月17日に条約は批准された。
スウェーデンではまだ条約は批准されていないが、政府は手続きを進める予定である。
チェコではまだ批准されていない。クラウス大統領は、ヨーロッパ統合に懐疑的で、議会が承認しても、署名しない可能性がある。
フランスはすでに批准しており、現在、EUの議長国である。
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コッリエーレ・デッラ・セーラの読者は6,8%増えた(7月31日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
Audipress の調査で、対象は、14歳以上のイタリア人で、2007年の9月10日から12月16日までと、2008年の3月10日から6月15日を調べている。
もっとも読まれているのは、Gazzetta dello Sport (ガッゼッタ・デッロ・スポルト)で、370万6000部。前の調査より、3,5%の増加。
レプッブリカ紙は、306万9000部で、2,6%の増加。コッリエーレ・デッラ・セーラ紙は、290万6000部。同紙は、2006年の秋には、257万7000部であった。
他の日刊紙では、ラ・スタンパが144万9000部で、4,7%増。イル・コッリエーレ・デッロ・スポルトが134万2000部で、2,4%増。
イル・メッサジェーロが131万3000部で、1,9%増。イル・レスト・デル・カルリーノが117万9000部で、0,1%減。イル・ソーレ・24・オーレは、112万2000部で、2,3%減。
フリー・プレス(無料の新聞)は好調で、Rcs の City は、200万部近い。ここでのトップは Leggo で232万8000部で、2,9%の上昇。Metro は5,2%の上昇を示したものの193万4000部に留まった。
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ヴェローナ市は、マローニ内相の法案が成立したのを機に、娼婦の客に対する罰金を36ユーロから500ユーロへと一気にあげる(7月31日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
36ユーロというのは、交通妨害に対する罰金であった。今回は、娼婦と交渉しているところを現行犯でつかまった場合、500ユーロの罰金が課せられることになった。ヴェローナでは、駅のまわりに、数百人の娼婦が繰り出すのだが、この2ヶ月、罰金を42ユーロに上昇したが、効果がなかった。
市長のフラヴィオ・トージは、罰金を一気にあげることで、娼婦の削減を狙っている。
またバールの外でアルコール飲料を飲むことを禁じており、1本目は100ユーロ、2本目は250ユーロ、3本目は500ユーロの罰金となる。
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シチリアのカーポ・ドルランド(メッシーナ県)で、ガリバルディ広場のプレートが市長の命令で破壊され、別の名前が命名された(7月31日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
カーポ・ドルランドの市長エンツォ・シンドーニは、ガリバルディ広場のプレートを粉々にし、ガリバルディのことを「フリーメーソンとイギリスの手先の凶悪な人殺し」とののしっている。
その広場は新たに「7月4日広場」(Piazza IV Luglio)と名付けられたが、わかりにくい名前で、これは1299年に6000人が死亡した海戦の日だという。
この動きを、シチリア州知事(シチリア自治派)のラッファエーレ・ロンバルドは歓迎し、「ピエモンテ人カヴールや、シチリア人でもクリスピなどの名は消さねばならない」としている。他のシチリア市長が、これに続くよう期待する発言もしている。
これに対し、作家のヴィンチェンツォ・コンソロは、市長や州知事は、軽率で、はしたない、としている。イタリア統一が何であったかを理解しておらず、それを汚す行為だと非難している。
このシチリア自治あるいは独立派は、北部同盟のボッシの影響を受けている。
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12歳から19歳の思春期の若者の意識調査が実施された(7月31日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
この調査は12歳から19歳、1350人を対象に実施されたもの。
もし選べるとしたら、何になりたいか、と聞かれて、26,2%が自分自身と答えている。ついでスター 22,8%、サッカー選手 15,9%、企業家 13,1%、世界をめぐる冒険家 9,7%、発明家4,5%、その他2,4%、画家1,5%、消防士 1,1%、判らない、無回答2,8%。
男女別に見ると、つきたい職業は?という質問に対し、
男
サッカー選手 34,2%
企業家 12,7%
スター 10,5%
発明家 7,2%
探検家 4,5%
消防士 1,6%
画家 0,4%
女
スター 31,2%
企業家 14,2%
探検家 13,7%
発明家 3,0%
画家 2,3%
サッカー選手 2,1%
消防士 0,8%
女性の場合、伝統的に答えの多かった、主婦、教師、秘書が消えている。
将来の目標は? と聞かれて
男
愛 34,2%
仕事 28,9%
金 16,7%
成功 12,3%
社会的責任 1,8%
(社会参加)
女
愛 37,1%
仕事 30,6%
成功 15,3%
金 10%
社会的責任 3,5%
政治に興味はありますか?と聞かれて(男女合わせて)
非常に 8,9%
まあまあ 34,1%
あまりない 42,4%
まったくない 14,6%
政治家(classe politica italiana)を信用していますか?
非常に 2,3%
まあまあ 18,9%
あまりない 41,7%
まったくない 28,9%
判らない 7,9%
となっている。
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アリタリアの再建計画をめぐり、政府と労働組合の間で緊張が高まっている(7月31日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
政府側は、5000人の余剰人員があるとしているが、労働組合は、うわさ話ばかりで、透明性のある計画を示すよう求めている。
アリタリアは最新の推計では、一日あたり300万ユーロの赤字を出している。アリタリアが保有する航空機は173機で、145機は短・中距離用で、28機が長距離用である。
ヨーロッパの航空会社の破綻の前例としては、2002年にスイスエアーが破綻した際には、1万1000人中、4000人が余剰人員とされた。また、ベルギーのサベナ航空が破綻した際には、ヴァージン航空に吸収され、43%の航空機が削減された。また、リストラで、6000人の人員が削減された。
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イタリアの自転車選手リッカルド・リッコはドーピングを認めた(7月31日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
リッカルド・リッコは7月10日には、トゥール・ドゥ・フランスの6日目の競技で勝っている。
7月17日、ドーピング検査で陽性反応が出て、警察の取り調べをうけた。
リッコは、「エポ(薬物名)を使用した」と認めた。「トゥールに参加する前だ。疲れていた」と理由を説明している。
リッコはモデナ県フォルミジーネで1983年9月1日生まれの25歳(日本と異なり、誕生日前でも誕生日が近くなると繰り上げて、年齢を数えることが多い)。
ドーピングを認めたことで、リッコは1年半の競技出場停止の処分を受ける可能性がある。
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