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2008年7月18日 (金)

ハイドン『フィレ-モネとバウチ』

Baucimercuriogiovefilemone ハイドン作曲のオペラ『フィレ-モネとバウチ』を観た(テアトロ・デイ・ロッツィ、シエナ)。

ロッツィ劇場は、シエナのカンポ広場から歩いて2、3分のところにある。非常に小振りの劇場で、今回の上演にはうってつけである。その理由は後述する。

『フィレ-モネとバウチ』はイタリア初演とのこと。僕もまったく知らないオペラである。

台本はGottlieb Konrad Pfeffel 。舞台の上では、人形(マリオネット)が劇を繰り広げる。レチタティーヴォではなく、普通の口調で台詞を語る。アリアになると、舞台より一段低いところにオーケストラと歌手4人がいて、役柄に応じて歌うという仕組みであった。

面白いのは、アリアは原文のドイツ語で歌われ、人形劇の台詞(これは歌手ではない声優たちの声がスピーカから聞こえてくる)はイタリア語で語られる。そのため、劇はとんとんと進み、上演は約1時間、休憩なしである。

オーケストラはエウロッパ・ガランテ。指揮兼ヴァイオリンがファビオ・ビオンディ。歌手は、フィレモーネは、カルロ・ヴィンチェンツォ・アッレマーノ(テノール)、フィレモーネの妻バウチが、マリヴィ・ブラスコ(ソプラノ)、アレーテ(フィレモーネとバウチの息子)がマグヌス・スタヴェラント(テノール)、ナルチッサ(アレーテの妻)がジェンマ・ベルタニョッリ(ソプラノ)。

マリオネットはカルロ・コッラ&フィッリ劇団。Compagnia Carlo Colla e Figli は約300年の歴史を誇る劇団で、イタリアの内外で活躍している。昨年はロッツィ劇場で、アイーダを上演したとのことである。アイーダの他、『ナブッコ』、『トロヴァトーレ』、バレエの『ペトルーシュカ』、『シェーラザード』や小説もの、おとぎ話など幅広いレパートリーを持っている。

つまりこのオペラはモーツァルトの『魔笛』にさきがけたジングシュピールなのである。台詞の間は、音楽がないのだ。そこがイタリア風のレチタティーヴォと異なるところである。

『Philemon und Baucis(ドイツ語の原題)』が初演されたのは、1773年9月2日であった。

ストーリーはオヴィディウスの『変身物語』がもとになっている。ジョーヴェ(ゼウス)とメルクリオが身をやつして旅人として、善良な老夫婦のもとにやってくる。老夫婦は貧しいが、正直もので、美徳にあふれた人生を送っている。唯一の悲しみは自分の息子夫婦が突然死んでしまったことだった。

ジョーヴェは、彼らの徳に満ちた生活を讃え、息子夫婦を生き返らせてやる。ジョーヴェを讃えて劇は終わる。ジョーヴェは、ハプスブルグ家を象徴しているわけで、エステルハージー家で上演された時、マリア・テレジアが臨席していたという。

ビオンディの音楽づくりは、最近のバロック音楽演奏の潮流を反映し、時代楽器を用い、ハイドンの音楽のなかにも、ダイナミックな動き、音量、表情のコントラストをくっきりつけていく。その上で、楽器の持つ、繊細の表情をうまく浮かびあがらせていき、実に音楽的に豊かな経験をもつことができた。

(追記:ハイドンの音楽がバロック音楽だと言いたいわけではない。今回のハイドンの演奏を聴いていると、ハイドンはウィーン古典派の始祖と呼ばれてはいるが、たとえばヘンデルのオペラとの近親性、響きの近さは如実に感じられた。時代から言えば、ハイドンは18世紀のまんなかで、啓蒙主義時代の人であるが、時代様式は、一日にして変わるものではなく、前の時代との連続性を重視するのか、あるいは前の時代との違いを強調するかによって、ニュアンスが大いにことなってくる。ビオンディの演奏では、ハイドンの持つバロック的要素が横溢していた、という意味である。それが、一昔、二昔前の端正さを強調したハイドン演奏とは異なるところである)。

エウロッパ・ガランテは総勢25人程度なので、リュートやハープシコードの響きがかき消されず、音のひだ、表情づけが手にとるように伝わってくる。これが小劇場の良さである。歌手も、大音量を要求されないので、のびやかに、また、ゆとりをもって表情やアクセントをつけていた。

話の内容がおとぎ話めいているだけに、マリオネットはぴったりである。それを小劇場で、時代楽器で聴け、観て楽しめたのは実に幸福な経験であった。恋や革命、生きる、死ぬのオペラも良いが、神様がいともたやすく二人を生き返らせてしまう美徳にみちた(もちろん、誰にとっての美徳なのか、とか論じだせばいろいろなことが言えるわけだが)おはなしもまた良いものだ。現実逃避とは違う、現実を濾過した劇で、農夫も農婦もアリアは実に貴族的というかハイドンの音楽そのもので、リアリティーがないと言えば全くないのである。しかし、それは、この劇のなかではこれでいいのだ。

このオペラはヴェリズモではない。現実が濾過され、透明になった上で、劇的に処理されている。そこにすがすがしさがあり、心洗われる時間が流れる。しかも、ビオンディの音楽づくりが、実に適切にダイナミズムを引き出し、一瞬たりと退屈することがなかった。言葉の最善の意味で、素晴らしい娯楽であった。

ちなみに入場料は20ユーロ(これが最高)で、学生などはここから割引がある。自由席はさらに安いのである。入場料だけでは、採算があうはずはないが、キージ音楽院の音楽週間の行事として催され、Fondazione Monte dei Paschi di Siena のプロジェクトであり、Monte dei Paschi di Siena 銀行がスポンサーとなっている。

(訂正)
当初、フィレモーネと表記していましたが、友人 R.K.さんのご指摘をうけ、固有名詞辞典で確認し、フィレーモネと訂正しました。R.K.さん、ありがとうございました。

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