エッリ・デ・ルーカ『常習の客』
エッリ・デ・ルーカの新詩集がでた(7月17日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。
2002年の Opera sull’acqua e alter poesie (水に書いた作品、その他)(Einaudi), 2005年のSolo andata. Righe che vanno troppo spesso a capo (片道切符、あまりにも頭に戻る詩行)(Feltrinelli)につづき、今回、Ospite incallito (常習の客)(Einaudi, pp.72, 8ユーロ)が出た。
このナポリの詩人は、彼の物語の周りを動き回るのだが、一見、対照的な二つの面を見せる詩を書いている。一つは、口語性の追求である。もう一つは、重い言葉、聖書の言葉、価値を伝える言葉である。一つ目の面は、Estate del ’43 (43年の夏)の方言に、もう一つの面は冒頭の散文 E non disse (そして言わなかった)にあらわれている。
現代詩の動向をフォローしている人は、デ・ルーカがどの流派にも属さず、現代詩人の妙な癖を示さないことに驚くだろう。デ・ルーカは、散文と並行して、表現空間を刻みこみ、「しばしば冒頭に返る」詩行に身をまかせる書き手にすぎないのだ。だから、彼の作品の核心には、濃縮された物語がある。それは Maniera や La bambina を見るとわかる。
また詩は、デ・ルーカにとって、異なった誘惑に身をまかせる実験の場でもある。電光石火のごとく、さっと物語を描くと思えば、長々とヴァリエーションを書いていく。Prontuario per il brindisi di capodanno (正月の乾杯の手引き)や Cinquanta (50年代)がその例。
もう少しデ・ルーカの詩の深い存在理由を掘り下げたければ、表題の L’ospite incallito (常習の客)から出発する必要があろう。これは普通の《fumatore incallito》(やめられない喫煙者、incallito にはたこができた、角質化した、とか、慣れっこになった、常習のといった意味がある)《criminale incallito》(常習犯)とか《peccatore incallito》(やめられぬ罪人、平気で罪を犯す人)を思い起こさせる表現である。
デ・ルーカの悪癖とは何なのだろう?いつも自分を客人としか考えず、移動の途中なのでかばんがいつも開いている。まず、心理的な態度であり、啓蒙的な教化する人に対抗させる世界観でもある。
デ・ルーカは山男で、岩山をよじのぼっていくのだ。
詩は?エッリは言う神が沈黙した時に話しはじめる、「こまかな埃の声だ」。端的に神は自分の役割を果たし、人間が歌の調子をあわせ、呼吸や心拍のリズムで詩を書くのを待っている。それは、まさに、山を登るのと同じである。
(エッリ・デ・ルーカの詩を一つ訳してみました。姉妹ブログ「イタリア現代詩の部屋」に掲載しています。管理人より)。
| 固定リンク
コメント