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2008年7月19日 (土)

ハイドン『フィレーモネとバウチ』その2

Teatrorozzi ハイドン作曲《フィレーモネとバウチ》の再演を観た(シエナ、ロッツィ劇場)。

イタリア語では、同じ曲を何回か上演した場合2回目以降の上演を replica という。

個人的には、同一の公演のオペラを2度観ることは原則的にない。(経済的な理由と、時間的な理由のためです)。同一公演で、2度観たのは、クラウディオ・アッバード指揮でロッシーニの《ランスへの旅》以来である。

二度目に気付いたこともあったので、記しておきたい。リブレットを見ると、この劇の登場人物はたくさんいるのである。神々がぞろぞろでてくる。ジョーヴェ、メルクリオ、ジュノーネ(ジョーヴェの妻)、アポッロ、ヴェネレ(ヴィーナス)、クーピド、ディアーナ、アッテオーネ、マルテ、ヴルカーノ、プルトーネ、ネットゥーノ、シレーネ、ミネルヴァ、バッコ(バッカス)などであるが、このうちジョーヴェ(ゼウス)とメルクリオ(マーキュリー)を除いては、序曲の間に人形が出てきて、通過していくのみで、台詞も歌もない。

人間の登場人物はフィレーモネ(老人)とバウチ(その妻)、アレーテ(二人の息子、雷に打たれて死んだ)とナルチッサ(アレーテの婚約者で、雷に打たれて死んだ)、村人、ジョーヴェの司祭たちだが、これも村人とジョーヴェの司祭たちは、最後の場面に出てくるが、人形としての姿のみで、台詞も歌もない。

ストーリーは昨日記した通りなのだが、フィレーモネとバウチという貧しい老夫婦のところに巡礼者に身をやつしたジョーヴェとメルクリオが訪れる。フィレーモネとバウチは、巡礼者が神とは知らぬまま、できるだけ二人を手厚くもてなす。

しかし、老夫婦には悲しい過去があることがわかり、巡礼者たちはそれを聞かせてくれといって、二人は語る。というわけで、フィレーモネとバウチのアリアはストーリーを語る性格の強いものである。自分の身、というか息子およびその許嫁が雷に打たれて死んだということを語るのである。類型的には、レチタティーヴォとアリアがあれば、レチタティーヴォでストーリーが展開し、アリアでその時の喜怒哀楽を歌いあげるというパターンであるが、この作品ではそうなっていない。

もっとも、アリア以外の部分は、レチタティーヴォではなくて、普通の台詞として語られる、つまりごく普通の人形劇のようになる。

もう一点、大変印象的だったのは、アレーテ(息子)のアリアである。老夫婦の美徳に感じ入ったジョーヴェがご褒美として、二人の息子と許嫁を生き返らせるのだが、若い二人は一言づつ「いとしい人」「君を抱かせておくれ」という言葉をかわしたあと、アレーテのアリアとなる。

アリアの内容は次のようなものだ。

この広大な大空(firmamento)には
小さな太陽が一つだけ輝いている
それはともかく素晴らしい天体だ。
エーテル(天空)の永遠の彼方には
無数の太陽(Miriadi di soli) が輝いている、
それは、ただ見るだけでなく、観想するため。

生き返った歓びや恋人に再会した歓びを単純に歌いあげるのでは、まったくないのだ。宇宙論、哲学を語るのである。これが生き返ったあとの最初のアリアなのである。

最初に観た時は、善良な徳にみちた老夫婦の善行が、神によって報われるという poetic justice (勧善懲悪)の物語と捉えたが、そしてそれは基本的な枠組みには違いないのだが、それと同時に、このアリアには18世紀啓蒙主義の哲学が反映していそうである。それが台本家 Gottlieb Konrad Pfeffel によるものなのか、作曲家Haydnによるものなのか、はたまた依頼主のNicolaus Esterhazy によるものなのかは、判断のしようがないが。

モーツァルトの《魔笛》がおとぎ話風でありながら、フリーメーソンの思想が背景にあることを思うと、このオペラも、さりげない形で、ある思想が埋め込まれているものと考える。それがより具体的にどういうものなのか、現時点では筆者には判らないのが残念である。

前回記したように、上記のことが判らないからと言って楽しめないということはまったくない。子供も大人も大いに楽しめるオペラである。それはフリーメーソンを知らなくても、《魔笛》が楽しめるのと同様である。

(訂正)
当初、フィレモーネと表記していましたが、友人Kさんの指摘をうけ、固有名詞辞典で確認し、フィレーモネと訂正しました。小学館の伊和中辞典にもアクセント付きで出ていました。お詫びして、訂正します。ギリシア神話だとピレモンとバウキスであるとのことです。

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コメント

 脱帽! 音楽への含蓄の深さ、愛、知識、イタリアの全般にたいする造詣の深くていらっしゃること。いま、必死で何回か拝見、これからも。マリオネット。ヨーロッパのマリオネット、素晴らしいですね。オンガク音痴ですが、堪能しました、御文に。言葉がありません。よろしく!

投稿: figliagiglia | 2008年7月21日 (月) 20時52分

figliagiglia さん

楽しんでいただけて嬉しいです。
このオペラ、本当に子供も大人も楽しめるものなんです。あるいはいろんなレベルで、重層的に解読できるように編まれたテクストであるとも言えましょう。

7月20日のコッリエーレ・デッラ・セーラおよび Il sole 24 ore には当日の演奏評が掲載されました。僕自身の書いた演奏評と重なるので紹介は省略しました。

エステルハージー公は、自分の宮殿にマリオネット用の部屋、お芝居の部屋、音楽の部屋と三つ別々に持っていたんですね。ナンたる贅沢!

しかし、18世紀の芸術はそういう贅沢な生活から生まれた贅沢な芸術なのでしょう。それが、次第に市民社会の芸術になっていくわけですね。

投稿: panterino | 2008年7月22日 (火) 07時41分

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