人種法から70年
1938年7月5日に発せられた人種法から70年が経過した(コッリエーレ・デッラ・セーラ、7月5日)。
人種法は、ファシズム体制のもと、1938年7月5日にヴィットリオ・エマヌエーレ3世により、サン・ロッソーレで公布された。当時は、ピサの郊外のサン・ロッソーレが夏の王の避暑地であった。
1938年8月5日から1943年6月20日までは、「人種の防衛(La difesa di Razza)」という名前の雑誌が、テレジオ・インテルランディの編集により、発行されていた。明らかに、反ユダヤ的な雑誌であった。
2008年7月10,11日にはサン・ロッソーレで「あらゆる人種差別に抗して」(Contro ogni razzismo)と題する集会が開かれる。
セルジョ・ロマーノによれば、ムッソリーニの人種法に関する考察に関しては、3つの段階に分けて考えることができる。
1.1960年代のはじめまで。個人的な記憶が、会話や物語のなかで語られた。
2.1960年代に2冊の本が出た。レンツォ・デ・フェリーチェ の Storia degli ebrei italiani sotto il fascismo (1961, Einaudi) (ファシズム体制下におけるイタリアのユダヤ人の歴史)。もう一冊は、アッティリオ・ミラーノのStoria degli ebrei in Italia (1963,Einaudi)(イタリアのユダヤ人の歴史)。
デ・フェリーチェは、誰もが知る歴史家で、当時は大著となるムッソリーニの伝記を執筆だった。アッティリオ・ミラーノはローマのユダヤ人で、1907年生まれ、1939年にパレスティナに移民している。
3.第三段階は、ヒトラーによるユダヤ人大量虐殺に焦点があたった過去30年である。イタリアでは、1968年の学生運動の成果とも関わっている。ホロコーストの責任問題に関して、ファシズムの起源に遡って責任追及がなされた。また教会の責任も追及されてきた。
第三段階がはじめて明らかにしたことも少なくないが、反面、イタリア人外交官のユダヤ人への援助、アッティリオ・ミラーノが高度な人間性の模範と述べているような、イタリア軍幹部が示したクロアチア、ダルマチア、モンテネグロ、ギリシア、フランスの一部でのユダヤ人に対する寛容な態度を理解しにくくなっている。
(お断り)
都合により、7月7日から17日まで、更新が不規則または不可能になります。あらかじめご了承ください。
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