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2008年7月31日 (木)

タクシーにヴィデオカメラ

Telecamere ミラノでタクシーにヴィデオカメラが設置された(7月30日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

7月半ばから、ミラノの117台のタクシーにテレビカメラ(videocamera, telecamera 両方の表記が混在しています)が設置されている。室内すべて、乗客も含めて撮影できる。設置費用は、業者とコムーネ(市)が半々で出している。

「意図は、タクシー運転手と乗客の安全のため」であると、業者も市側も口をそろえる。

ヴィデオカメラはすでにフィレンツェのタクシーには設置されており、ローマもその方向で動いている。

ミラノの場合、市は100万ユーロを計上している。

また、タクシー以外でも、ミラノ市には、テレビカメラが全部で900台設置されている。その費用は3000万ユーロに上る。

地下鉄の監視カメラも540台から2500台に、2009年末までに増やす。

こうした動きにたいし、プライヴァシー保護委員会(Il garante per la privacy)のフランチェスコ・ピッツェッティはあらたな基準が必要だとしている。

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2008年7月30日 (水)

インテリはヴェンドラのもとに留まる

Pietrangeli 再建共産党の新リーダーは、パオロ・フェッレーロが選出されたが、インテリはニキ・ヴェンドラのもとに留まっている(7月29日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

シンガー・ソング・ライター(cantautore)のピエトランジェリもその一人。彼は「コンテッサ」という歌がよく知られている。

ジャーナリストのリタンナ・アルメーニも、「フェッレーロのもとに集まった幹部は尊重すべきだが、大きな限界がある。非常に考えの異なる人たちの集合体であるからだ...ニキ・ヴェンドラは破れたが、信頼性の高い幹部を集めていた」としている。

学者のアソル・ローザは、「水平線上には、分裂が見えている」とし、ヴェンドラに共感を覚えると表明している。

一方、映画監督のチット・マゼッリはフェッレーロを支持している。

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ヴェルトローニとフェッレーロ:地方議会はどうする?

Ferrero01g 再建共産党の新リーダーに、民主党とは一線を画するフェッレーロが選出されたことで、地方議会での連立をどうするかという問題が生じている(7月29日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

パオロ・フェッレーロの勝利で、民主党のダレーマが画策していた新たな拡大中道左派を形成するという戦略はボツとなった。

だからといって民主党のヴェルトローニが、中道Udcのカジーニのところに飛び込むわけではない。

フェッレーロの勝利に伴い、コムーネ(市町村)、県、州の議会での連立をどうするかという問題が起こっているが、今のところフェッレーロはケース・バイ・ケース(caso per caso)と言っている。

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マリーサ・メルリーニ、死去

Marisa_merlini_3 女優マリーサ・メルリーニが亡くなった。84歳だった(7月29日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

マリーサ・メルリーニは、友人のアンナ・マニャーニと同様、生粋のローマ人だった。

17歳でレビューに出た。ルイジ・コメンチーニ監督の《パンと恋と夢》(Pane, amore e fantasia) でデ・シーカと共演している(写真)のは有名。その他、アルベルト・ソルディやトトと共演している。

プーピ・アヴァーティ監督は、La seconda notte di nozze で、老年のメルリーニを起用しているが、「名誉なことだった」とのコメントを残している。

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大学の寮が足りない

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イタリアの大学生の数は、約180万人。それに対し、キャンパス内外で提供されている寮のベッド数は約5万で、約2,7%にすぎない。

これはヨーロッパ諸国でも最低基準である。

たとえば、イギリスでは、オックスフォード、ケンブリッジ大はもちろんのこととして、全体でも29%が寮にはいれる。フランスは16%、ドイツは12%、スペインは8%である。

寮は、普通の下宿よりも経済的なため、両親の負担を期待できない学生の存在を考えると、より民主的である。また、寮で、自分の生活、時間を律することが、明日の労働者にとっても重要な訓練となる。

イタリア政府は、2000年に、寮のベッド数倍増のための4年間の特別計画をたてたのである。それから8年が経過している。当時のオルテンシオ・ゼッキーノ大臣の計画は半ば失敗に終わっている。

ベッド数は、4万2000から5万になり、20%増加したのであって、倍増にはほど遠いからだ。しかも、この増加分は、未だに使用不可能なものも含まれた数字なのである。

これに対し会計院(Corte dei conti) も不明瞭な部分があるとしている。

さらに、寮建設のために予算として割り当てられた3億8000万ユーロのうちこれまで消化されたのは、4000万ユーロで11%にすぎない。

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2008年7月29日 (火)

再建共産党の歴史

Prc_100 再建共産党の歴史が紹介されている(7月28日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

1991年、オケット書記長のもとでイタリア共産党に終止符が打たれ、左翼民主党(Partito Democratico della Sinistra) が誕生した。

この「展開」に反対して生まれたのが再建共産党 (Rifondazione comunista)で、書記長はセルジョ・ガラヴィーニだった。

1994年、ファウスト・ベルティノッティが再建共産党の書記長となる。1999年彼らが補正予算案に反対し、第一次プローディ政権が倒れた。

その結果、再建共産党は二つに分裂した。コッスッタとディリベルトは、ベルティノッティと訣別し、党を出て、イタリア共産主義者党(Partito del Comunisti italiani) を新たに結成した。

2006年、ベルティノッティが下院議長就任にともない、フランコ・ジョルダーノがリーダーとなる。

2008年、ベルティノッティは、総選挙で緑の党(Verdi), Pdci (イタリア共産主義者党)、Sd との連立を主導したが、大敗し議席をすべて失った。

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コッリエーレ・デッラ・セーラのヨーロッパでの販売状況

Corriere_della_sera コッリエーレ・デッラ・セーラ紙は、ポルトガルでは、同日のものが販売されている(この項は、番外で、管理人のレポートです)。

ヨーロッパのいくつかの国で、イタリアの新聞を買った経験があるのだが、アイルランドでは一日遅れである。ただし、ダブリンでもスライゴーでも買える。つまり、首都だけではなく、地方のさほど規模の大きくない町でも、イタリア紙が売られているのである。

アイルランドの場合、外国紙は、大きめの書店 (Easonなど)に置いてある場合と、普通の新聞販売店に置いてある場合とそれぞれである。

スイスのチューリッヒでも一日遅れであるが、イタリア紙は販売されている。普通の新聞販売所で売っていた。スイスのイタリア語圏(ロカルノなど)では言うまでもなく、販売されている。

北アイルランドは、国としてはイギリスになるが、北アイルランド最大の都市、ベルファーストではイタリア紙は買えなかった。空港も含めて置いてなかったのである。

ポルトガルのポルトでは、同日のものが、サイズが縮小されて売っている。サイズが8割程度になっている。アイルランドやスイスでは、実物が空輸または陸路で運送されてきているのだが、ポルトガルの場合は、電子的に送られそれを縮小コピーの感じで、何%か縮小し、印刷しているものと思われる。それで、イタリアと同日の内容のものを販売できるのであろう。

(追記)
その後、ポルトガルのコインブラの新聞販売店に立ち寄ると、一日遅れのレプッブリカ(サイズはオリジナル)を売っていた。おそらく、イタリアから輸送されてきたものと思われる。コッリエーレ・デッラ・セーラとレプッブリカは、ポルトガルに関しては、異なる販売方式・配信体制をとっているのかもしれない。

(再追記および訂正)
ポルトガルの首都リスボンでは、コッリエーレ・デッラ・セーラ紙もレプッブリカ紙も、イタリアと同日のものが買えた。よく見ると、レプッブリカ紙はすべて白黒である。明らかに輸送ではなく、電子的に送り、ポルトガルで印刷しているものと思われる。追記の推測は管理人の観察力不足によるものでした。訂正いたします。なおコッリエーレ・デッラ・セーラ紙は、サイズが縮小されているだけでなく、カラー面は第一面と最終面のみになっています。

(再々追記)
イギリスの首都ロンドンでは、コッリエーレ・デッラ・セーラ紙もレプッブリカ紙も、同日のものが買えた。両紙ともサイズはイタリアと同じ。コッリエーレ・デッラ・セーラは、第一面と最終面のみカラーで、レプッブリカは全部白黒なので、電子的に送って現地で印刷しているものと思われる。

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2008年7月28日 (月)

再建共産党、フェッレーロ土壇場、逆転勝利

Ferrero_7_28 再建共産党の次期リーダーに、元大臣のパオロ・フェッレーロが選出された(この項、Corriere.it による)。

再建共産党(Prc)の第7回代表者会議は、キアンチャーノで開かれていたが、リーダー選出の投票数時間前にパオロ・フェッレーロ(写真)が立候補を決め、142票対134票、白票および棄権4票で、プーリア州知事のニキ・ヴェンドラを下した。

前夜まで行われていた調停は失敗に終わり、投票によりリーダーが選出された。

フェッレーロは、社会の現実問題から再出発する、としている。勝利が決すると、bandiera rossa (赤旗)の歌が歌われた。

ベルティノッティ派に支持されていたニキ・ヴェンドラは、分裂(scissione) ではないとし、われわれは47%を獲得したのだから党を出ることはないとしながらも、同時に、再建共産党の歴史は終わったとの考えを表明した。

また、ヴェンドラおよび彼の支持者は、書記局には入らないとしている。

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不安定雇用の待遇、いっそう不利に

Sacconi_maurizio 不安定雇用(プレカリアート)の扱いがいっそう不利になり、労働組合はいっせいに反発している(7月27日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

これまで、一定の期間を過ぎても不安定雇用のままだと、司法から強制的に、期間を限定しない雇用に切り替えることがありえたが、これからは、単に罰金を払えばすむことになりそうだ。

これは政府の修正案のなかに含まれているもので、労働組合は反発している。政府の内部でも、福祉大臣サッコーニ(写真)は政府案に同意していない。

不安定雇用者の平均年収は1万5000ユーロ。平均年齢は35歳。それが唯一の収入源という人の割合は67%である。

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2008年7月27日 (日)

もう一つのトリエステの展覧会

San_giusto トリエステのサン・ジュスト城で、中世のトリエステを紹介する展覧会が開かれる(7月26日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

展覧会は、トリエステのドゥオーモであるサン・ジュスト教会の隣にある、サン・ジュスト城(Castello di San Giusto) が会場で、7月30日から2009年1月25日まで開かれる。

テーマは《Medioevo a Trieste》(トリエステにおける中世)。この展覧会の紹介記事は三人(アルトゥーロ・カルロ・クィンタヴァッレ、ジョルジョ・プレスブルジェル他)が三つの記事を書いている。

トリエステは、海際にイタリア統一広場やボルゴ・テレジアーナ(マリア・テレジアが作った街区)などがあるが、少し内陸にはいると、丘がある。その途中には古代ローマ時代(紀元1世紀末から2世紀初め)の野外劇場跡があり、サン・シルヴェストロ広場には、11世紀の教会とともに古代ローマのArco di Riccardo と呼ばれる門がある。これは紀元前33年に遡るものである。

それを越えて、丘をのぼっていくとサン・ジュスト教会(写真)がある。この教会の歴史は複雑である。古代には神殿があり、その素材を再利用して、1337年に鐘楼が建てられた。その後も二つの教会が一つに合体したりしている。

近代に入ってからは、トリエステはカルドゥッチやダンヌンツィオがその詩に詠んでいる。1952年には、ニッラ・ピッツィが、トリエステをカンツォーネで歌い、サンレモ音楽祭で勝利を飾っている。

ジェイムス・ジョイスは、サン・ジュスト教会のそばに3年間住ん(トリエステには10年間住んでいる)。そればかりか、妹のアイリーンは1915年4月12にこの教会で結婚式を挙げており、兄ジェイムスも参加している。ジョイスは、カトリック教会とは縁を切っており、二人の子供にも洗礼をさずけずにいたが、この時は特別であったのだ。

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移民、緊急事態

Immi180x140 イタリアへの移民が2008年に入って増加しており、政府は緊急事態を宣言しようとしているが、民主党は反対している(7月26日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

2007年は、1月から7月24日までの移民は8106人であった。

2008年は、1月から7月24日までの移民は1万3108人にのぼっている。

イタリアには滞在許可証を持たない移民を受け入れる施設が二種類ある。一つは Cda (Centri di accoglienza) で、もう一つは Cara (Centri di accoglienza peri richiedenti asilo) で、後者は、政治亡命を望んだ場合に適応される。

イタリア全国で、その二種類(CdaとCara)の受け入れ可能人数は、8414人で、現在の収容人数は、7460人。受け入れ可能人数は954人である。

また、難民申請数は、2000年には1万8360人であったのが、2007年には13万4207人になっており、難民として受け入れられた人数は、2000年が1615人、2007年が1万425人となっている。

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2008年7月26日 (土)

小さなコムーネの挑戦

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小さなコムーネは生き残りをかけて、エネルジーやテクノロジーに取り組んでいる(7月25日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

イタリアには、住民5000人以下の小さなコムーネ(村)が5446ある。そうした村に住んでいるひとは、合計で、1100万人。

最も多い州は、ロンバルディアでそういう村が1236ある。次いで、ピエモンテ州で1077。

最も人口の少ない村(コムーネ)は、モルテローネ(レッコ県)で人口32人。

こうした小さなコムーネは、Anci(l’associazione dei communi d’Italia) によると、2010年までは困難な時期が予想されている。意欲的なコムーネ、ヴァレーゼ・リグレ(写真)やファエートのように風力発電に取り組んだり、マルツィオのように、ブロード・バンドを取り入れているところもある。

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再建共産党、リーダー立候補はヴェンドラのみ

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再建共産党(Prc)の代表者会議で、党首選に立候補したのはニキ・ヴェンドラだけだった(7月25日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

元大臣のパオロ・フェッレーロは立候補しなかった。代表者会議は、キアンチャーノで開かれている。

ニキ・ヴェンドラは現プーリア州知事である。この大会では、これまで党を率いてきたベルティノッティ(ただし、総選挙時はリーダーはフランコ・ジョルダーノ)に対しては生ぬるい拍手と、いくらかの野次が交錯した。

フェッレーロとその支持者は、ディ・ピエトロに近い立場をとり、民主党(Pd)とは一線を画する立場であり、一方、ニキ・ヴェンドラと他の執行部は、民主党にも扉を開く立場で、左派も統治力があることを示したいとしている。

このように、再建共産党は、事実上、二つに割れている。

(お断り)

7月27日から8月10日まで、都合により更新が不定期もしくは不可能となります。あらかじめご了承ください。

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2008年7月25日 (金)

アルファーノ調停案に大統領署名

Napolitanogiorgio324 ナポリターノ大統領(写真)は、アルファーノ調停案(Lodo Alfano) に署名した(7月24日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

アルファーノ調停案の内容は、共和国大統領、首相、上下院議長に対する刑事裁判を中断するものである。

これは職につくまえの事由についても適応される。

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2008年7月24日 (木)

生後2ヶ月の乳児、割礼で死亡

Bimbo_nigeriano01g 生後2ヶ月の赤ん坊が、割礼をほどこされ、出血多量で死亡した(7月23日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

事件が起こったのはバーリ。赤ん坊の母は事件の三日前にスペインからやってきた。母は24歳のナイジェリア人、スペインで正式の滞在許可証を持ち、夫はスペインに留まっていた。バーリのナイジェリア人が彼女をとめてくれたのである。

バーリの友人は、赤ん坊への割礼を安くやってくれる人がいると持ちかけ、それに応じたところ、悲劇は起こった。ジョンソンちゃん(生後2ヶ月半)は、写真の家で手術後、出血のため病院に運ばれたが、一時間後、出血多量のため死亡した。

残念ながらこれは初めての事件ではない。6月のはじめ、トレヴィーゾで同様の事件で、生後2ヶ月の赤ん坊が死亡している。これもナイジェリア人であった。

手術をほどこした男も、ナイジェリア人で、無資格の「医師」だった。

イタリアで割礼をしている人は8,4%。アメリカでは、白人男性は、過半数がしている。

ユダヤ教では、割礼の契約(《Brit mila'》は神がアブラハムに、神とイスラエル民族の永遠の絆のしるしとして、命じた(創世記、17,10)。割礼は、生後8日でしなければならない。手術は昼に実施せねばならない。

イスラム教では、割礼(circoncisione, 包皮の除去手術)は、単なる儀式ではなく、信仰の欠かせない一面と考えられている。なぜなら、マホメットがスンナ(イスラム教の口伝律法)で推奨しているからだ。この場合も、起源は、アブラハムにさかのぼるが、アブラハムは80歳で自分で割礼し、それを家族に広めたとされている。

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2008年7月23日 (水)

マローニ:親のないロムに市民権を

Maroni_7_22 マローニ内相は、親のないロム(ジプシー)に、イタリアの市民権を与えようという提案をした(7月22日、レプッブリカ)。

マローニの提案は人道的な観点からとしており、赤十字はこの提案を支持している。

イタリアに住むロムは16万人。全人口の0,2%。7万人は市民権を持っている。

ミラノには5000人、ローマには9000人のロムがいる。

イタリアのロムのうち3割はルーマニア人で、7割はイタリア生まれ。

4割は定住をし、6割は半流浪(seminomade)の生活をしている。

ロムのうち、未成年は60%をしめる。内訳は
0-5歳   30%
6-14歳  47%
15-18歳 23%
となっている。

14歳以下のロムは6万人いるが、学校に登録しているのはそのうち1万3000人である。

人道団体のサンテジディオ会(comunita' Sant'Egidio) のスポークスマン、マリオ・マラッツィーティは、親に捨てられたロムは少数で、本当の緊急的問題は旧ユーゴスラビア出身の「見えない」、無国籍のロムで、その数は2万ー4万人にのぼるとしている。

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ベジャールに捧げる夕べ:パガニーニ&ガランテ

                                               Galante_bolero Paganini01

《ベジャールに捧ぐ》(Omaggio a Be'jart) と題するバレエの夕べを観た。

これはキャンティ・フェスティヴァル2008 の中の一つの催しものである。

開催地はラッダ・イン・キャンティ(キャンティ地方は、フィレンツェとシエナの間にある丘がうねうねと続き、有名なワインの産出地)で、フェスティヴァルは、ラッダ・イン・キャンティ、ガイオーレ・イン・キャンティ、カステッリーナ・イン・キャンティ、カステルヌオーヴォ・ベラルデンガの4つのコムーネ(市町村)の共催である。今年で、10回目とのこと。

ラッファエーレ・パガニーニおよび彼の率いるバレエ団と、グラツィア・ガランテによるバレエの夕べであった。

グラツィア・ガランテ(写真上)、ローマのオペラ座バレエ学校にいるところをベジャールに見いだされ、20世紀バレエ団に入り、ジョルグ・ドンの相手役もつとめたバレリーナである。顔つきも、身体的表情も、独特で、異彩をはなっていた。

7つの演目があり、そのうち5つはパガニーニとそのバレエ団が、ルイジ・マルテッレッタの振り付けの演目(カルメン組曲、Crises,ジュリエッタとロメオ、南と呼ぼう、ボレロ)を踊り、ガランテはソロで、2つの演目 Light と Dionysos (どちらも振り付けはベジャール)を踊った。

そのうち、Light は圧巻で、前半はトーシューズをはいて、後半は裸足で踊る。その前に観ていたマルテッレッタの振り付けが決して悪いわけではなく、モダンで美しいのだが、ベジャールはまったく別世界である。

単に調和を求めるのでなく、身体の動きの流れを、中断したり、ずらしたりしていく。音楽に三和音の美だけでなく、バルトークやベルクの不協和音の美があるようにベジャールは、一見するとぎくしゃくとした不自然ともいえる意外性のある動き、異なったスピード、方向の動きの接続のなかに不思議な、独自の美を展開する。観客は、自ずと、身体とは、バレエとは、という思いに運ばれると同時に、眼の前に展開する予想不可能な身体性の開示に当惑する快感を感じる。

Lightに較べると、ディオニソス(振り付けベジャール)は比較的オーソドックスであった。

マルッテッレッタの振り付けは、群舞の扱いが面白かった。ダンサーは女性も、男性もレベルが高く、しかも音楽が、カルメンあり、ピアソラあり、ナポリの民謡ありで、変化にとみ、それに応じて服装もかえ、動きもシャープで、あっという間に時間は過ぎた。

ラッダ・イン・キャンティは、小さな集落で、周りはオリーヴ畑やブドウ畑が広がっている。そこの広場(Piazza Ferrucci)に臨時の舞台を設営しての公演である。9時半過ぎに開始であったが、夜になるとむしろ肌寒いくらいで、途中からみな長袖をはおっていた。澄み切った星空のもとで、このようなバレエを観るのは、このうえなく贅沢な経験であった。感謝。

ちなみに、本来は、有料でチケットを買うはずだったのだが、現地についてみると、チケットを買っている客と買っていない客を区別するのが困難なので、売るのはやめた、ということで、無料で観てしまいました。僕を車で乗せてきてくれたG氏夫妻は爆笑していましたが、当惑とともに感謝。

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フィーニ、ボッシを叱責

Fini2 フィーニ下院議長は、ボッシの国歌(l'Inno di Mameli)侮辱発言を叱責した(7月22日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

フィーニは、「何者も、ましてや共和国の大臣は、国歌やそれが意味するところに込められた国民の感情を害するような言葉を発するべきでない」とボッシに注意をした。

また、南部出身の教師に対する差別的発言に対しても、「大臣は、出身地が、北部、南部、どこであれ、すべてのイタリア人を尊重すべきことに疑いの余地はない」。

これに対し、当のウンベルト・ボッシは、「彼は沈黙しているほうが良かった」としている。ベルルスコーニ首相は沈黙を保っている。

北部同盟は、ヴェルディの Va' pensiero (《ナブッコ》の中の合唱曲)が好きなのは周知の事実であるが、さらにボッシは、「l'Inno di Mameli より、イタリアにとっては canzone del Piave がふさわしい」としている。

ピアーヴェの歌は、第一次大戦時の愛国的歌であるが、作詞者のジョヴァンニ・ガエタはナポリの人(したがって南部の人)である。

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2008年7月22日 (火)

ボッシ、国歌と南部出身の教師を侮辱

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北部同盟のリーダー、ウンベルト・ボッシは国歌と南部出身の教師を侮辱した。与党内部でも国民同盟は距離を置いている(7月21日、コッリエーレ・デッラ・セーラおよびレプッブリカ)。

ボッシは、パドヴァのLiga Venetaの大会で講演中、中指を立てて国歌(l’inno di Mameli)を侮辱し、「われわれがローマの奴隷などであるべきだはない。国歌は、イタリアはローマの奴隷だという。これでもくらえ。中道のごろつきに対して、俺たちは1500万人の男がいる」と言い放った。さらに、「教師の中には、シャシャやピランデッロの話ばかり聞かせたがる輩がいる」と南部出身の教師を侮辱した。

国歌の歌詞は次のようなものである。

Fratelli d’Italia
L’Italia s’e’ desta,
Dell’elmo di Scipio
S’e’ cinta la testa.
Dov’e’ la Vittoria?
Le porga la chioma,
Che’ schiava di Roma
Iddio la creo’.
Stringiamci a coorte
Siam pronti alla morte
Siam pronti alla morte…

(大意)
イタリアの同胞よ
イタリアは目覚めた、
スキピオのかぶとを
頭にかぶっている。

勝利の女神はどこだ?
髪をさしだせ
お前はローマの奴隷
神がそう作った。
歩兵隊に入ろう
死ぬ覚悟はできた
死ぬ覚悟はできた...

問題のフレーズは中ほどだが、これは古代ローマの服従の儀式に言及している。古代ローマでは、奴隷は髪を切ったのである。それと同様、勝利の女神も髪を差し出すべきだというのである。だから、ローマの奴隷なのは、イタリアではなくて、勝利の女神なのである。

上院議員のルイージ・グリッロは長年にわたって Inno di Mameli を国歌にする運動を展開している。あまり知られていないが、この歌詞と音楽は、いまだに「暫定的な」国歌なのである。言い換えれば、まだ法的に国歌ではなく、歴史や習慣上、それとして通用しているだけなのだ。グリッロは、正式に国歌としたいとして、2003年には法案を提出し、2005年にはチャンピ大統領から感謝状をもらった。今回もその任務にあたりたいとしている。

南部出身の教員に関しては、今や教員志望者は3人に2人が南部出身者である。

ウンベルト・ボッシは2007年には、国旗侮辱で1年4ヶ月の有罪を宣告され、その後、3000ユーロの罰金に入れ替わったが、恩赦のため1ユーロも払っていない。1997年には、「三色旗はケツを拭くために使う」(Il tricolore lo uso per pulirmi il culo)という暴言をはいたこともある。

’inno di Mameli は、作詞者ゴッフレード・マメリ(写真上)、作曲家ミケーレ・ノヴァーロ(写真下)によるもので、1847年に書かれた。マメリは、1827年ジェノヴァ生まれ、ローマ共和国を守る戦いで、22歳の若さで亡くなった。

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2008年7月21日 (月)

緑の党の新リーダーに、フランチェスカート

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緑の党(Verdi)の新たなリーダーに、グラツィア・フランチェスカートが選出された(7月20日、レプッブリカ)。

緑の党の正式名は Federazione dei Verdi (緑の連盟)、1986年に誕生した。シンボルマークは笑う太陽だが、このマークは地方選挙で1985年に登場している。初代の会長はリーパ・ディ・メアーナ。

これまでで最も得票率が高かったのは、1994年のヨーロッパ議会選挙で、3,1%の得票率だった。

今回は、7年間、緑の党を率いてきたアルフォンソ・ペコラーロ・スカーニョの後任を選ぶ選挙である。

立候補者は3人いて、マルコ・ボアート、グラツィエ・フランチェスカート、ファビオ・ロッジョラーニ。マルコ・ボアートは、ロッタ・コンティヌアの創設者の一人で、社会党や急進党との対話を訴えた。ファビオ・ロッジョラーニは、党の左派を代表する人物。フランチェスカートは、wwf に長くかかわってきた。また、1999年から2001年まで党のリーダーをつとめていた。

結果は、フランチェスカート60%、ボアート22%、ロッジョラーニ13%、白票5%で、フランチェスカート、61歳が選出された。

彼女の責務は、20年間にわたる議会活動が、このまま消え去らぬようにすることである。(先のイタリア総選挙で、緑の党はアルコバレーノとして急進左派数党と連携して戦ったが、大敗して議席が0となっている)。

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公務員ストへ

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公務員が、政府の大規模予算修正案(manovra)に反対して、ストライキに突入する可能性がでてきた(7月20日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

労働組合 Cgil, Cisl および Uil によると、政府の予算修正案(manovra) は、2008―2009年の公務員との契約更改に関し、27億ユーロをあてているが、4億ユーロが削減されていることになるという。

トレモンティ経済相は、労働組合の見落とし、錯誤であって、削減はないとしている。

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教皇:小児虐待の司祭は裁判へ

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小児(性的)虐待の司祭は、裁判にかけられるべきだとベネデット16世は宣言した(7月20日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

ベネデット16世は、この pedofilia (児童への性的虐待)に関し、アイルランド、アメリカ、オーストラリアの司教から報告を受け、厳しい判断をくだした。

教皇は、3段階に渡ってこの問題に対する態度を厳しくしてきた。第一は、2006年10月にアイルランドの司教団と接見したときである。このときに「おそろしい犯罪」について言及があり、二度と繰り返されぬための措置が必要であるとした。

第二は昨年4月のアメリカ合衆国訪問で、「深刻な恥辱」という言葉が用いられた。第三は昨日で、罪人は裁きを受けねばならないことが確認された。また、犠牲者と苦しみをともにするとしている。

イタリアでは1996年から2006年の間に、17人が有罪判決をうけ、22人が起訴されている。

アメリカでは、1950年から2002年の間に、4392人が告発されている。司祭の数は10万9000人あまりである。告発された司祭の81%は同性愛者である。

ブラジルでは、2005年から2006年にかけて、1700人の司祭が、暴行、乱痴気騒ぎ(orge)、麻薬使用で告発された。

多くの例が、イギリス、フランス、クロアチア、アイルランドでも報告されている。

シドニーでは数百人の反教皇のデモがあり、デモ参加者は、コンドームを路上で配った。

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2008年7月20日 (日)

快速500 アバルト

Abartth_1 フィアット500(チンクエチェント)のアバルト版が発売される(7月21日付け、コッリエ・デッラ・セーラ付属、コッリエーレ・モトーリ)。

(コッリエーレ・モトーリの日付は7月21日になっているが、少しさばをよんだ日付であるー管理人註)。

フィアットの500(チンクエチェント)は発売以来1年間に22万台以上の注文をとりつけるヒット作となった。イタリアだけでなく、フランス、ドイツ、イギリスでも一定の地位をしめている。

南アフリカやオーストラリアでは順番待ちのリストができている。ポーランドの500製造工場では年間の製造能力を12万台から19万台にあげた。

今回はアバルト・チューニングの新バージョンが登場する。スポーツ・バージョンである。アバルトというのは、カルロ・アバルト(Carlo Abarth)という1908年ヴィーン生まれのエンジンの天才から来ている。Abarth & C は1949年に誕生したが、事業が成功したのは1960年代である。Fiatとの協力関係を持ち、1971年には事実上フィアットの子会社となった。1958年には、500 Abarth が登場しており、これは Carlo Abarth の傑作の一つと言われている。

今回は50年ぶりの500 アバルトとなるわけである。アバルトの代表取締役ルーカ・デ・メオは「われわれは手の内にジョーカーを持っているようなものだと考えている」と自信満々。

車体は中間冷却器(gli scambiatori di calore, intercooler)を収蔵するため少し長くなった。エンジンは1,4リッター、16valve, T-jet ガソリン、135馬力である。時速205キロまででるとか?フェンダーも特別仕様となっている。

500はナポリターノ大統領をはじめ有名人御用達でもある。

ナポリターノ大統領のは、ブルーで、ランプの脇に三色旗がつくが、これは取り外しできるようになっている。

ルーカ・ディ・モンテツェーモロのは、1,4リッター、120馬力、若い頃に彼が乗っていた500のレプリカとなっている。色は赤。

セルジョ・マルキオンネのは黒で、1,4リッター、120馬力。これはまだ市場に出回っていない。

ヴァレンティーノ・ロッシのは、ヤマハのバイクと同様の外装となっている。

ピエロ・キアンブレッティ(司会者)のは、暗赤色で、手書きのマークがある。

ロザリオ・フィオレッロのは、カラシおよび白のツートン。

500を買った人は、細部に、さらに手を加える人が多い。自分独自のオリジナル500とするのである。

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エンニオ・カヴァッリ 『半過去の喪』

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エンニオ・カヴァッリの新詩集L’imperfetto del lutto (Aragno, pp.146, 14ユーロ)が出版された(7月19日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

「さあ、この半過去を使おう、/本当に愉快であるように/僕も死んだことにしよう/僕らはまだいることにしよう/新たに生きる遊びをしよう/ほらお前に倒れかかるぞ」。

エンニオ・カヴァッリは、パートナーのパオラ・マラヴァージ(彼女も詩人だった)の突然の早すぎる死(2005年)を皮肉をこめて、喪の作業を念入りにしている。

嘆いてばかりはいられないし、止まってもいられない。詩人は反発する。本が証明するように、半過去を用いて、へたくそな反発もする。(imperfetto は不完全といういう意味だが、文法用語としては、半過去で、過去のある状態をしめす。近過去が動作の終了をしめすのに対し、半過去はある時点で、~していたという状態を示す)。

おのおのの詩は、喪失、幸福感の瞬間をしめすが、つねに辛辣さに支えられている。

悪魔払い。反発。他の女性と出かける、肉にふれつつ、慰めにならぬ言葉を読みながら、盾で身を守るように。こんな具合だ。細部は、愛する人のイメージ、立ち居振る舞いを生きなおすが、すぐにまた必然的に暗くなる。屈服しないための一言はきつい。「お前がいなくなってから, 行間には炎の風が吹く」(Da quando non ci sei, un vento tra le righe soffia fuoco. こうした言葉を省略した愛の宣言は、記憶の責め苦をやわらげていく。

詩人は、なすべきことに、気をまぎらわす。パオラはそこにいて、彼は新たなオルフェオのように放浪する。「振り向くな、オルフェオ、前を見ろ、/ そうだ、彼女はお前をさがしている、/ 霊たちのなかでもっとも光輝く霊だ」(non voltati, Orfeo, guarda avanti,/ Si’, sara’ lei a cercarti, l’ombra tra le ombre con piu’ luce)。真実の、苦悩を持って生きられ、何かを待つ物語である。が、ここで止めておこう。謎があるのだ。自己憐憫に陥るのはたやすかったはずだが、カヴァッリは、悲哀を、生命の尊さを認識することによって、抵抗力へと変えている。これも、愛なのだ。本当の愛であり、終わりはない。

(評者:オッタヴィオ・ロッサーニ)

(お断り:コッリエーレ・デッラ・セーラの記事は原則としてすべて署名記事です。これまで、記者名、筆者名を省略していましたが、書評や映画評、音楽評など文化欄の記事は、評者、筆者の名を記した方がよいと考え直し、これからは文化欄の記事に限って、筆者の名を記す方針です)。

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ナポリ、ゴミ問題、一段落する

Napoli_rifiuti ベルルスコーニ首相は、ナポリのゴミ問題を58日で解決した、と宣言した(7月19日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

首相は、ナポリは西洋に戻ったとも表現した。再びナポリで閣議を開き、記者会見での発言である。

また閣議ではラルッサ防衛相が、8月のはじめには、兵士たちが町にやってきて、パトロールをすると報告した。

ゴミの緊急事態は解決した。ベルルスコーニははやくも、来年のG8の最終日はナポリ湾でのクルージングとしたい意向を示した。

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エッリ・デ・ルーカ『常習の客』

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エッリ・デ・ルーカの新詩集がでた(7月17日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

2002年の Opera sull’acqua e alter poesie (水に書いた作品、その他)(Einaudi), 2005年のSolo andata. Righe che vanno troppo spesso a capo (片道切符、あまりにも頭に戻る詩行)(Feltrinelli)につづき、今回、Ospite incallito (常習の客)Einaudi, pp.72, 8ユーロ)が出た。

このナポリの詩人は、彼の物語の周りを動き回るのだが、一見、対照的な二つの面を見せる詩を書いている。一つは、口語性の追求である。もう一つは、重い言葉、聖書の言葉、価値を伝える言葉である。一つ目の面は、Estate del ’43 (43年の夏)の方言に、もう一つの面は冒頭の散文 E non disse (そして言わなかった)にあらわれている。


現代詩の動向をフォローしている人は、デ・ルーカがどの流派にも属さず、現代詩人の妙な癖を示さないことに驚くだろう。デ・ルーカは、散文と並行して、表現空間を刻みこみ、「しばしば冒頭に返る」詩行に身をまかせる書き手にすぎないのだ。だから、彼の作品の核心には、濃縮された物語がある。それは Maniera La bambina を見るとわかる。

また詩は、デ・ルーカにとって、異なった誘惑に身をまかせる実験の場でもある。電光石火のごとく、さっと物語を描くと思えば、長々とヴァリエーションを書いていく。Prontuario per il brindisi di capodanno (正月の乾杯の手引き)や Cinquanta (50年代)がその例。

もう少しデ・ルーカの詩の深い存在理由を掘り下げたければ、表題の L’ospite incallito (常習の客)から出発する必要があろう。これは普通の《fumatore incallito(やめられない喫煙者、incallito にはたこができた、角質化した、とか、慣れっこになった、常習のといった意味がある)criminale incallito(常習犯)とか《peccatore incallito》(やめられぬ罪人、平気で罪を犯す人)を思い起こさせる表現である。

デ・ルーカの悪癖とは何なのだろう?いつも自分を客人としか考えず、移動の途中なのでかばんがいつも開いている。まず、心理的な態度であり、啓蒙的な教化する人に対抗させる世界観でもある。

デ・ルーカは山男で、岩山をよじのぼっていくのだ。

詩は?エッリは言う神が沈黙した時に話しはじめる、「こまかな埃の声だ」。端的に神は自分の役割を果たし、人間が歌の調子をあわせ、呼吸や心拍のリズムで詩を書くのを待っている。それは、まさに、山を登るのと同じである。

(エッリ・デ・ルーカの詩を一つ訳してみました。姉妹ブログ「イタリア現代詩の部屋」に掲載しています。管理人より)。

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2008年7月19日 (土)

ハイドン『フィレーモネとバウチ』その2

Teatrorozzi ハイドン作曲《フィレーモネとバウチ》の再演を観た(シエナ、ロッツィ劇場)。

イタリア語では、同じ曲を何回か上演した場合2回目以降の上演を replica という。

個人的には、同一の公演のオペラを2度観ることは原則的にない。(経済的な理由と、時間的な理由のためです)。同一公演で、2度観たのは、クラウディオ・アッバード指揮でロッシーニの《ランスへの旅》以来である。

二度目に気付いたこともあったので、記しておきたい。リブレットを見ると、この劇の登場人物はたくさんいるのである。神々がぞろぞろでてくる。ジョーヴェ、メルクリオ、ジュノーネ(ジョーヴェの妻)、アポッロ、ヴェネレ(ヴィーナス)、クーピド、ディアーナ、アッテオーネ、マルテ、ヴルカーノ、プルトーネ、ネットゥーノ、シレーネ、ミネルヴァ、バッコ(バッカス)などであるが、このうちジョーヴェ(ゼウス)とメルクリオ(マーキュリー)を除いては、序曲の間に人形が出てきて、通過していくのみで、台詞も歌もない。

人間の登場人物はフィレーモネ(老人)とバウチ(その妻)、アレーテ(二人の息子、雷に打たれて死んだ)とナルチッサ(アレーテの婚約者で、雷に打たれて死んだ)、村人、ジョーヴェの司祭たちだが、これも村人とジョーヴェの司祭たちは、最後の場面に出てくるが、人形としての姿のみで、台詞も歌もない。

ストーリーは昨日記した通りなのだが、フィレーモネとバウチという貧しい老夫婦のところに巡礼者に身をやつしたジョーヴェとメルクリオが訪れる。フィレーモネとバウチは、巡礼者が神とは知らぬまま、できるだけ二人を手厚くもてなす。

しかし、老夫婦には悲しい過去があることがわかり、巡礼者たちはそれを聞かせてくれといって、二人は語る。というわけで、フィレーモネとバウチのアリアはストーリーを語る性格の強いものである。自分の身、というか息子およびその許嫁が雷に打たれて死んだということを語るのである。類型的には、レチタティーヴォとアリアがあれば、レチタティーヴォでストーリーが展開し、アリアでその時の喜怒哀楽を歌いあげるというパターンであるが、この作品ではそうなっていない。

もっとも、アリア以外の部分は、レチタティーヴォではなくて、普通の台詞として語られる、つまりごく普通の人形劇のようになる。

もう一点、大変印象的だったのは、アレーテ(息子)のアリアである。老夫婦の美徳に感じ入ったジョーヴェがご褒美として、二人の息子と許嫁を生き返らせるのだが、若い二人は一言づつ「いとしい人」「君を抱かせておくれ」という言葉をかわしたあと、アレーテのアリアとなる。

アリアの内容は次のようなものだ。

この広大な大空(firmamento)には
小さな太陽が一つだけ輝いている
それはともかく素晴らしい天体だ。
エーテル(天空)の永遠の彼方には
無数の太陽(Miriadi di soli) が輝いている、
それは、ただ見るだけでなく、観想するため。

生き返った歓びや恋人に再会した歓びを単純に歌いあげるのでは、まったくないのだ。宇宙論、哲学を語るのである。これが生き返ったあとの最初のアリアなのである。

最初に観た時は、善良な徳にみちた老夫婦の善行が、神によって報われるという poetic justice (勧善懲悪)の物語と捉えたが、そしてそれは基本的な枠組みには違いないのだが、それと同時に、このアリアには18世紀啓蒙主義の哲学が反映していそうである。それが台本家 Gottlieb Konrad Pfeffel によるものなのか、作曲家Haydnによるものなのか、はたまた依頼主のNicolaus Esterhazy によるものなのかは、判断のしようがないが。

モーツァルトの《魔笛》がおとぎ話風でありながら、フリーメーソンの思想が背景にあることを思うと、このオペラも、さりげない形で、ある思想が埋め込まれているものと考える。それがより具体的にどういうものなのか、現時点では筆者には判らないのが残念である。

前回記したように、上記のことが判らないからと言って楽しめないということはまったくない。子供も大人も大いに楽しめるオペラである。それはフリーメーソンを知らなくても、《魔笛》が楽しめるのと同様である。

(訂正)
当初、フィレモーネと表記していましたが、友人Kさんの指摘をうけ、固有名詞辞典で確認し、フィレーモネと訂正しました。小学館の伊和中辞典にもアクセント付きで出ていました。お詫びして、訂正します。ギリシア神話だとピレモンとバウキスであるとのことです。

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2008年7月18日 (金)

教皇、オーストラリアへ

Papacondannalabortodifenderevitaamb 教皇ベネデット16世は、オーストラリアに行き、若者たちにむかって生命と環境を尊重するよう呼びかけた(7月18日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

シドニーで、教皇を出迎えた人々は50万人に達した。そのうち15万人は若者で、教皇は1900人の若者とともにシドニー湾を航行した。

ラッツィンガーは特に、生命の尊重を訴え、中絶は言語道断の暴行(violenza indicibile)であるとしている。

オーストラリアのカトリック教徒200人(その中には司祭、修道女も含まれる)はラッツィンガー教皇への公開書簡を発し、聖職者の独身制度と聖職者の地位から女性が排除されていることの見直しを求めた。

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公務員の病欠に締めつけ

Certificatomalattia364324x230 公務員の病欠に対する条件が厳しくなる(7月18日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

たとえ1日の欠勤でも、医師の証明書を提出しなければならない。

この措置は、公務員大臣レナート・ブルネッタの通達(circolare)によるもの。

医師の証明書はVisita fiscale というもので、病気が治って健康になったことの証明書である。しかも通達によると、自由診療の医師の発行したものではだめで、保険医の出したものに限るとしている。

さらに病欠の最初の10日間は、欠勤すると、特別な場合を除き、「根本的な経済的扱いに反映する」、つまり給料が、通常の1日の場合とくらべ、4分の1少なく支払われる。

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ハイドン『フィレ-モネとバウチ』

Baucimercuriogiovefilemone ハイドン作曲のオペラ『フィレ-モネとバウチ』を観た(テアトロ・デイ・ロッツィ、シエナ)。

ロッツィ劇場は、シエナのカンポ広場から歩いて2、3分のところにある。非常に小振りの劇場で、今回の上演にはうってつけである。その理由は後述する。

『フィレ-モネとバウチ』はイタリア初演とのこと。僕もまったく知らないオペラである。

台本はGottlieb Konrad Pfeffel 。舞台の上では、人形(マリオネット)が劇を繰り広げる。レチタティーヴォではなく、普通の口調で台詞を語る。アリアになると、舞台より一段低いところにオーケストラと歌手4人がいて、役柄に応じて歌うという仕組みであった。

面白いのは、アリアは原文のドイツ語で歌われ、人形劇の台詞(これは歌手ではない声優たちの声がスピーカから聞こえてくる)はイタリア語で語られる。そのため、劇はとんとんと進み、上演は約1時間、休憩なしである。

オーケストラはエウロッパ・ガランテ。指揮兼ヴァイオリンがファビオ・ビオンディ。歌手は、フィレモーネは、カルロ・ヴィンチェンツォ・アッレマーノ(テノール)、フィレモーネの妻バウチが、マリヴィ・ブラスコ(ソプラノ)、アレーテ(フィレモーネとバウチの息子)がマグヌス・スタヴェラント(テノール)、ナルチッサ(アレーテの妻)がジェンマ・ベルタニョッリ(ソプラノ)。

マリオネットはカルロ・コッラ&フィッリ劇団。Compagnia Carlo Colla e Figli は約300年の歴史を誇る劇団で、イタリアの内外で活躍している。昨年はロッツィ劇場で、アイーダを上演したとのことである。アイーダの他、『ナブッコ』、『トロヴァトーレ』、バレエの『ペトルーシュカ』、『シェーラザード』や小説もの、おとぎ話など幅広いレパートリーを持っている。

つまりこのオペラはモーツァルトの『魔笛』にさきがけたジングシュピールなのである。台詞の間は、音楽がないのだ。そこがイタリア風のレチタティーヴォと異なるところである。

『Philemon und Baucis(ドイツ語の原題)』が初演されたのは、1773年9月2日であった。

ストーリーはオヴィディウスの『変身物語』がもとになっている。ジョーヴェ(ゼウス)とメルクリオが身をやつして旅人として、善良な老夫婦のもとにやってくる。老夫婦は貧しいが、正直もので、美徳にあふれた人生を送っている。唯一の悲しみは自分の息子夫婦が突然死んでしまったことだった。

ジョーヴェは、彼らの徳に満ちた生活を讃え、息子夫婦を生き返らせてやる。ジョーヴェを讃えて劇は終わる。ジョーヴェは、ハプスブルグ家を象徴しているわけで、エステルハージー家で上演された時、マリア・テレジアが臨席していたという。

ビオンディの音楽づくりは、最近のバロック音楽演奏の潮流を反映し、時代楽器を用い、ハイドンの音楽のなかにも、ダイナミックな動き、音量、表情のコントラストをくっきりつけていく。その上で、楽器の持つ、繊細の表情をうまく浮かびあがらせていき、実に音楽的に豊かな経験をもつことができた。

(追記:ハイドンの音楽がバロック音楽だと言いたいわけではない。今回のハイドンの演奏を聴いていると、ハイドンはウィーン古典派の始祖と呼ばれてはいるが、たとえばヘンデルのオペラとの近親性、響きの近さは如実に感じられた。時代から言えば、ハイドンは18世紀のまんなかで、啓蒙主義時代の人であるが、時代様式は、一日にして変わるものではなく、前の時代との連続性を重視するのか、あるいは前の時代との違いを強調するかによって、ニュアンスが大いにことなってくる。ビオンディの演奏では、ハイドンの持つバロック的要素が横溢していた、という意味である。それが、一昔、二昔前の端正さを強調したハイドン演奏とは異なるところである)。

エウロッパ・ガランテは総勢25人程度なので、リュートやハープシコードの響きがかき消されず、音のひだ、表情づけが手にとるように伝わってくる。これが小劇場の良さである。歌手も、大音量を要求されないので、のびやかに、また、ゆとりをもって表情やアクセントをつけていた。

話の内容がおとぎ話めいているだけに、マリオネットはぴったりである。それを小劇場で、時代楽器で聴け、観て楽しめたのは実に幸福な経験であった。恋や革命、生きる、死ぬのオペラも良いが、神様がいともたやすく二人を生き返らせてしまう美徳にみちた(もちろん、誰にとっての美徳なのか、とか論じだせばいろいろなことが言えるわけだが)おはなしもまた良いものだ。現実逃避とは違う、現実を濾過した劇で、農夫も農婦もアリアは実に貴族的というかハイドンの音楽そのもので、リアリティーがないと言えば全くないのである。しかし、それは、この劇のなかではこれでいいのだ。

このオペラはヴェリズモではない。現実が濾過され、透明になった上で、劇的に処理されている。そこにすがすがしさがあり、心洗われる時間が流れる。しかも、ビオンディの音楽づくりが、実に適切にダイナミズムを引き出し、一瞬たりと退屈することがなかった。言葉の最善の意味で、素晴らしい娯楽であった。

ちなみに入場料は20ユーロ(これが最高)で、学生などはここから割引がある。自由席はさらに安いのである。入場料だけでは、採算があうはずはないが、キージ音楽院の音楽週間の行事として催され、Fondazione Monte dei Paschi di Siena のプロジェクトであり、Monte dei Paschi di Siena 銀行がスポンサーとなっている。

(訂正)
当初、フィレモーネと表記していましたが、友人 R.K.さんのご指摘をうけ、固有名詞辞典で確認し、フィレーモネと訂正しました。R.K.さん、ありがとうございました。

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2008年7月17日 (木)

ベルルスコーニ、司法改革を急ぐ

Calde140x180 ベルルスコーニ首相は、司法改革を急いで実現したいと主張しているが、北部同盟からは待ったがかかっている(7月17日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

ベルルスコーニは司法制度改革を優先順位が高いものとして、9月には実現したいとしているが、簡素化大臣で、北部同盟(Lega Nord, 単にLegaと呼ばれることも多い)の幹事長ロベルト・カルデローリ(写真)は、2008年はすでに予定がびっしり詰まっていると当惑の色を隠せない。

北部同盟としては、税金の連邦制度化(federalismo fiscale、税源移譲) を、優先して取り組むべきだとしている。

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2010年から全員が指紋

Imp 2010年から、イタリアでは全員が身分証明書に指紋を付することになりそうだ(7月17日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

今のところ、修正案(emendamento) が下院の委員会を通過した段階だが、早期のうちに法案となる模様。

2010年1月から施行される予定で、与野党ともに合意している。

またこの修正案によると、身分証明書の有効期間が5年から10年に延長される見通しである。

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フェッラーリのように赤い高速列車

Alta_velocita_716_2 フェッラーリのように赤く速い高速列車が2011年に登場する(7月16日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

新たな高速列車はNtv(Nuovo Trasporto Viaggiatori, 新旅客輸送)と呼ばれ、民間の新会社が運行する。

時速360キロで走り、11両編成で460人を運ぶ。長さは200メートル。

窓は、従来のものより15%大きくなり、車内は明るくなり、風景がよく見えるようになる。内部のデザインはジュージアーロ(Giugiaro)によるものである。

25本分の車両がフランスのAlstom社によって、6億5000万ユーロで、製造される。

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ホームレス、10万人に迫る

Clochard イタリアのホームレスの数が10万人にせまっている(7月16日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

ホームレス(イタリア語ではsenzatetto(屋根無し)とかsenza dimora (住居無し)あるいは vivere in strada (路上で生活する),さらにはフランス語を用いて clochard という言葉が用いられている)に関するきちんとした統計がなかったが、2年後を期して、Istat, 福祉省、Caritas, ホームレス援助協会連盟(federazione delle associazioni che assistono i clochard)、 によって全国的な調査が実施されることになった。

現在のものは推計値である。それによると、イタリアの路上生活者は7万から10万人おり、ドイツの2万人、スペインの2万1千人と較べて多い。

男女別は、男81,8%、女18,2%。

年齢は27歳以下  15,5%
   28歳から37歳 30,9%
   38歳から47歳 23,1%
   48歳から57歳 16,0%
   58歳から64歳 8,7%
   65歳以上    5,8%
となっている。

学歴は
    中卒 33,7%
    高卒 17,7%
    大卒 3,9%

なぜ路上生活者となったか?
 長期の失業   43,4%
 愛情関係の失望 37,1%
 アル中      27,6%
 刑務所入り   21,3%
 薬物        14,3%
 (会社の)経済的破綻 12,17%

誰に援助を求めるか?
 家族  13,3%
 友人  24,3%
ボランティア 38,7%

どれくらい路上で生活しているか?
1年以下   16,1%
1年から3年 33,3%
4年から6年 21,2%
7年から9年 11,6%
10年以上  17,8%

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イタリア銀行:経済停滞を警告

Bollettino イタリア銀行の四半期毎の経済報告書が発表になったが、経済の停滞を警告する内容となっている(7月16日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

報告書は Bollettino Economico というもので、3ヶ月毎にイタリア銀行が発行しているもの。

以前は、2008年の経済成長は1%と予測されていたが、0,4%へと下方修正された。2009年も同程度と予想されている。

インフレは、年率3,8%となり、家計にのしかかり、購買力を低下させている。3,8%というのは1996年以来の高い数値である。

報告書は停滞(stagnazione)という言葉を用いているが、これは経済成長が小さい、または非常に小さい、または0の状態を示すことばで、スタグフレーションよりはましである。スタグフレーションという言葉は、報告書では、周到に避けられている。スタグフレーションは、経済停滞に、高いインフレ率が同時に起こった場合を指すからである。

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2008年7月16日 (水)

デル・トゥルコ逮捕される

Ottavianodelturco アブルッツォ州の州知事オッタヴィオ・デル・トゥルコが逮捕された(7月15日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

州の病院売却に絡む収賄容疑で、35人が関係している。

デル・トゥルコは580万ユーロの賄賂を受け取った疑いがもたれている。

デル・トゥルコはもともと労働組合出身で、1968年にFiomに入り、1977に書記となり、1983年、39歳の時に、Cgilに移った。

2005年の選挙で、州知事に選ばれている。

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2008年7月15日 (火)

教員への投資

Mariastella_gelmini マリアステッラ・ジェルミーニ公教育および大学大臣は、教育の向上のためには、教育への投資が重要で、そのために、30%のカットを優秀な教員への報償にあてるとしている(7月14日、メッサジェーロ)。

30%のカットというのは、約8万人のポストが削減されることになっているので、その分の予算を優秀な教員への報償にあてるというものである。

ジェルミーニは、現在のイタリアは、教員評価という行為が少なすぎるとしている。

さらに、ジェルミーニは、現在の大学の3年生および修士課程2年のシステム(3プラス2,tre piu' due) は、うまく機能しておらず、見直しも含めて検討するとしている。

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ガソリン価格さらに上昇

Ansa_10957597_44030 ガソリン価格が上昇している(7月13日、レプッブリカ)。

ガソリンおよびディーゼルの価格がさらに上昇し、1リットル1,558ユーロ(約255円)になった。

昨年7月は、ガソリン1リットル1,359ユーロ、ディーゼル1,164ユーロであったが、現在はガソリン、ディーゼルともに同価格になっている。

2000年からの比較では、電気、ガス代は、37,7%上昇し、高速道路料金は27,8%上昇している。

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2008年7月14日 (月)

コムーネ、付加税を値上げ

Addizionale_irpef 多くの市町村が付加税を値上げしている(7月11日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

これはaddizionale comunale Irpef と呼ばれるもので、Irpef (個人所得税)自体は、国税だが、その付加税は、コムーネ、市町村が徴収するのである。

付加税(addizionale Irpef) は1998年にプローディ政権によって創設された。

税率は上限があり、その上限は当初は0,2%であったが、その後、0,5%となり、2006年に0,8%まで引き上げられた。

付加税はまだ確定値ではないが、過去2年間に、46%増加し、25億ユーロの財源となっている。

1998年には4分の1の市町村しか、付加税を課していなかったが、現在では4分の3の市町村が付加税を課している。

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2008年7月13日 (日)

ロムの子供の指紋摂取、EUがまった

Rom01g EU議会は、イタリア政府に対し、ロム(ジプシー)の指紋摂取を止めるよう要求した(7月11日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

EU議会は特に、子供の指紋摂取に異議を申し立てており、人権を侵害しているとしている。

この決議は、賛成336票、反対220票、棄権77票で成立した。

これに対し、イタリアの内相マローニは、「指紋摂取は、ロマのキャンプにいて、しかるべき証明書で身分証明が出来ない場合に限って、未成年に対しても実施される」と釈明した。

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2008年7月12日 (土)

ヴェルトローニ、ディ・ピエトロと分裂か

487502ac3fd65_zoom 野党で、総選挙をともにたたかったヴェルトローニとディ・ピエトロの間に亀裂が入った(7月10日、レプッブリカ)。

ヴェルトローニは、ディ・ピエトロに対し、グリッロと行動を共にするのか、自分たちと行動を共にするのかと迫っている。

これはローマのナヴォナ広場でのデモで、教皇や大統領に対する侮辱的な言辞があったため、民主党の中には、これと行動を共にしたディ・ピエトロに対する反発が出てきている。

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2008年7月11日 (金)

フィアットとBMWの提携

Allenza フィアットとBMWの提携が発表された(7月9日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

今のところは、予備段階であるが、協力関係は、アルファ・ロメオとミニに関するもので、プラットフォーム、共通の部品を用いてコストをカットする。

また、アメリカにおけるBMWの販売網をアルファ・ロメオが利用する。

将来的には、エンジンの共同開発の可能性も除外していない。この点については細部はまだ明らかになっていない。

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コントラーダの抽選

Bruco シエナのカンポ広場で、8月16日のパリオに参加するコントラーダの抽選が行われた(7月6日、この項、palio.siena.comune.it による)。

8月のパリオは去年8月のパリオを走らなかった7つのコントラーダは自動的に権利がある。馬が走るのは10のコントラーダなので、残りの3つは、去年走った10のコントラーダから抽選で決める。

抽選の結果、ブルーコ(いも虫)、ヴァルディモントーネ(羊)、ドラーゴ(龍)の3コントラーダが選ばれた。

もともと権利のある7つのコントラーダは、アクィラ(鷲)、タルトゥーカ(亀)、トッレ(塔、象のマーク)、ニッキオ(貝)、パンテーラ(豹)、セルヴァ(森、サイのマーク)、オーカ(鵞鳥)である。

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2008年7月10日 (木)

50㎡のアパートを10万戸建設

Tremonti77 政府は庶民向けの住宅10万戸建設計画を準備中である(レプッブリカ、7月7日)。

それによると、40㎡から60㎡のアパート、住宅を10万戸建設する。

売却と賃貸があるが、賃貸の場合の家賃は、月300ユーロ前後の予定である。

この計画にかかる費用は、50億から70億ユーロと見積もられている。

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教皇、G8に呼びかけ

Benedetto_16_7 教皇ベネデット16世は、G8が貧者を助けるよう呼びかけた(7月7日、レプッブリカ)。

日本でのG8のサミットに先駆けて、教皇は、世界の弱い立場にある貧者のことを考えるよう呼びかけた。

G8は石油の値上がりや投機の問題について話し合う予定である。

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2008年7月 8日 (火)

裁判中止をめぐる攻防

Alfano 政府の裁判に関する法案で与野党の攻防が激しさをましている(コッリエーレ・デッラ・セーラ、7月6日)。

法相アルファーノ(写真)の調停案では、4つの職責、大統領と首相、上院および下院議長に対しては、裁判を起こすことができないというものである。

野党が特に反対しているのは、裁判の中止で、刑法で刑罰が10年以下のものは、一年間裁判を中止するという案である。

カルデローリの調停案は、アルファーノ案はすぐに通して、その代わりに、裁判中止は断念するというもの。野党民主党のリーダー、ヴェルトローニは評価しているが、ベルルスコーニは、今のところ、カルデローリ案にそって野党と交渉する姿勢は見せていない。

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2008年7月 6日 (日)

2009年は特別パリオか

Bernardo_tolomei 2009年は、シエナのパリオで、特別パリオが実施される見通しになってきた(7月5日、La Nazione)。

シエナのパリオは、通常7月2日と8月16日に実施されるが、特別の理由がある場合には、それ以外に特別パリオ(Palio straordinario)が催される。

Enciclopedia di Palio di Siena (Alarico Rossi 著、Edizione Addi)によると、1900年以来の特別パリオは次の通り。

1902年9月28日ダンテ・アリギエーリ協会13回大会
1904年4月17日ヴィットリオ・エマヌエーレIII世シエナ訪問
1907年8月18日騎手なし馬の競走
1909年8月17日ピストイアとベルガモの公爵に敬意を表して
1910年9月13日フランス人ジャーナリスト訪問に敬意を表して
1913年9月25日イタリア科学進展協会の第7回大会
1919年8月17日ピストイアとベルガモの公爵に敬意を表して
1928年9月14日現代音楽第6回会議
1945年8月20日平和のため
1947年5月18日サンタ・カテリーナ生誕600年
1950年5月28日サン・ベルナルディーノが聖人になって500年
1954年9月5日教皇ピオ12世マリアの年を宣言(回勅Fulgens Coronaで宣言した。反マルクス主義的行動と受けとめられたようである)
1960年9月4日モンタペルティの戦い700年(モンタペルティはシエナがフィレンツェを打ち破った戦い)
1961年6月5日イタリア統一100年
1967年9月24日科学進展協会の第49回会議
1969年9月21日月に最初の人間到達
1972年9月17日モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ銀行設立500年
1980年9月7日サンタ・カテリーナ没後600年
2000年9月9日第三千年紀

今回は、福者ベルナルド・トロメイが2009年に聖者になるのを記念して、特別パリオが催される見通しになった。聖者になるのは、1946年に福者ベルナルドに祈って特別に病気がなおった奇跡が認められたため。

ベルナルド・トロメイは、1272年5月10日シエナ生まれ。1313年に3人の友人とともに、世俗を引退し、モンテ・オリヴェート(シエナの南にある)にこもった。1348年のペストが猖獗をきわめた時、彼はシエナに出てきて病人を助け、死者の埋葬を手助けした。彼とその仲間の修道僧も1348年に死んだ。

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人種法から70年

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1938年7月5日に発せられた人種法から70年が経過した(コッリエーレ・デッラ・セーラ、7月5日)。

人種法は、ファシズム体制のもと、1938年7月5日にヴィットリオ・エマヌエーレ3世により、サン・ロッソーレで公布された。当時は、ピサの郊外のサン・ロッソーレが夏の王の避暑地であった。

1938年8月5日から1943年6月20日までは、「人種の防衛(La difesa di Razza)」という名前の雑誌が、テレジオ・インテルランディの編集により、発行されていた。明らかに、反ユダヤ的な雑誌であった。

2008年7月10,11日にはサン・ロッソーレで「あらゆる人種差別に抗して」(Contro ogni razzismo)と題する集会が開かれる。

セルジョ・ロマーノによれば、ムッソリーニの人種法に関する考察に関しては、3つの段階に分けて考えることができる。  

1.1960年代のはじめまで。個人的な記憶が、会話や物語のなかで語られた。

2.1960年代に2冊の本が出た。レンツォ・デ・フェリーチェ の Storia degli ebrei italiani sotto il fascismo (1961, Einaudi) (ファシズム体制下におけるイタリアのユダヤ人の歴史)。もう一冊は、アッティリオ・ミラーノのStoria degli ebrei in Italia (1963,Einaudi)(イタリアのユダヤ人の歴史)。

デ・フェリーチェは、誰もが知る歴史家で、当時は大著となるムッソリーニの伝記を執筆だった。アッティリオ・ミラーノはローマのユダヤ人で、1907年生まれ、1939年にパレスティナに移民している。

3.第三段階は、ヒトラーによるユダヤ人大量虐殺に焦点があたった過去30年である。イタリアでは、1968年の学生運動の成果とも関わっている。ホロコーストの責任問題に関して、ファシズムの起源に遡って責任追及がなされた。また教会の責任も追及されてきた。

第三段階がはじめて明らかにしたことも少なくないが、反面、イタリア人外交官のユダヤ人への援助、アッティリオ・ミラーノが高度な人間性の模範と述べているような、イタリア軍幹部が示したクロアチア、ダルマチア、モンテネグロ、ギリシア、フランスの一部でのユダヤ人に対する寛容な態度を理解しにくくなっている。

(お断り)
都合により、7月7日から17日まで、更新が不規則または不可能になります。あらかじめご了承ください。

    

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キム・ロッシ・ステュアート、水上事故起こす

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映画俳優のキム・ロッシ・ステュアートは、チヴィタヴェッキア沖で、ゴムボートを運転中、スキューバダイバーを巻き込む事故をおこした(コッリエーレ・デッラ・セーラ、7月5日)。


ダイバーは、マルコ・ドラツィオ、34歳、スーパーマッケットの部長で、妻と子供がいる。この事故で、右腕と足に重傷を負い、右腕の一部を切断した。

キム・ロッシ・ステュアート(39歳)は、ボチャンという音は聞こえたが、木かと思った、と語っている。

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公務員給与の上昇は、インフレ上昇率の倍

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2000年から2007年の間に、公務員の給与は、インフレ上昇率の倍、上がった(コッリエーレ・デッラ・セーラ、7月5日)。

Istatによると、2000年から2007年の間の物価上昇率は17%。民間の給与上昇率は20%、それに対し、公務員の給与上昇率は35%となっている。

一方、雇用は、公務員が全体の14%、民間が86%であるのに対し、労働のコストは、公務員が24%、民間が76%となっている。

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2008年7月 4日 (金)

ベルルスコーニ、テレビ出演とりやめる

Berlusconi02g ベルルスコーニは自ら出演すると宣言していたテレビ番組Matrixへの出演をとりやめた(7月4日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

ベルルスコーニ首相は側近らと長いミーティングをし、賛否両論であったが、結論としては、Canale 5(カナレチンクエ)のMatrix という番組に出ないことを決断した。

ミーティングにいた側近は、レッタ、ボナイウーティ、アルファーノ、ゲディーニ、チッキット、クヮリアリエッロらである。

首相は、裁判の中止や、盗聴の禁止など政府の政策について、直接国民に訴えかける予定であったが、中止した。

しかし、テレビ出演を断念したからといって、法案(措置)を断念したわけではないとしている。

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ポッリーニ:モーツァルトのピアノ協奏曲12番&24番

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ポッリーニの新譜、モーツァルトのピアノ協奏曲12番&24番を聴いた(DG4777167)。

オーケストラはヴィーン・フィルで、指揮とピアノがマウリツィオ・ポッリーニ、ライヴ録音である。

モーツァルトのピアノ協奏曲は12番は比較的演奏されることが珍しく、24番ハ短調は良く演奏される。ちなみにハ短調はイタリア語ではド・ミノーレ、do minore である。日本語では音名が三種類あり、ドの音がCとなったりハとなったりする、イタリア式に全部ドレミファで言ってしまえば、ハ短調はド短調となる。わかりやすい。

ポッリーニのモーツァルトは、一言で言えば、感情過多に陥ることのないモーツァルトである。特に24番ハ短調では、ロマンティックな要素が多分にあるので、オーケストラにしても、ピアノにしても、細部により一層の感情を込めた演奏もあるし、それはそれで魅力的なモーツァルトになりうることは言うまでもない。

しかし、ポッリーニのモーツァルトの魅力は少し違うところにある。まず、選曲であるが、CDの解説にパオロ・ペタッツィが記しているように、この二つのコンチェルトは、1782年から1786年というモーツァルトが協奏曲づくりに集中した時期の最初と最後にあたる。モーツァルト26歳から30歳の時期である。

モーツァルトの早熟さについては、その神童ぶりのエピソードには事欠かないわけだが、それ以上に驚くのは、晩年にかけての成熟ぶり、曲想の変化が多様になり、また、そこここに哀愁を帯びた音色が出現することである。二つの協奏曲を聞きくらべれば、4年間の間にこうも違う曲を書くようになったのかとあらためて驚かずにはいられない。モーツァルトは、早熟の天才であり、それを否定する気はみじんもないが、一方で、天才に生まれついて何の工夫も努力もなかったのかというとそうではなく、たとえば交響曲を聴くと、第25番や第29番のように若い時期の傑作もあるのだが、30番台、特に35番ハフナーから後は、それ以前には見られない堂々として、なおかつ深い感情表現、音楽的構築性が見られる。真の天才は、自分を繰り返すことに満足しないのである。あるいは、自分の作風をどんどん意識的に変化させていくところに、モーツァルトのロマン派性の先取りが見えるかもしれない。

ポッリーニは、リサイタルでもそうであるが、プログラムの構築が常に知的である。リサイタルの場合には、音楽史が見通せたり、あるいは通常のパースペクティヴに変更を迫るようなプログラムを組んだりする。ここでは、24番という通常ロマン派よりに演奏される曲を、むしろまだロココの雰囲気たっぷりの曲と組み合わせて、モーツァルトの変化、そして24番も短調でドラマティックな曲想があるとはいえ、ロココ的な要素のあることを十分に感じさせる音楽づくりとなっている。

無論、短調の悲劇性が軽視されているというのではない。ポッリーニも、24番では、その表現の振幅の大きさを音楽的に表現している(3楽章、CDトラックナンバー6の2分30秒以降が、顕著な例である)。しかし、モーツァルトはたとえばベートーヴェンの英雄以降の音楽と較べれば、ロマン派の先取り要素はたしかにあるのだが、ロココの秋、ワトーやブーシェの絵画を思わせる要素もあるのだ。ふと、悲しみに傾くかと思えば、そこからふとにこやかな表情に音楽は変わっていく。

モーツァルトが、この二つのコンチェルトを書いたのは、フランス革命の直前であって、後ではない。

ポッリーニは、全体として、非常にバランスを重視して、感情表現にのめり込むことなく、音楽を作り上げていく。特に24番に対して、あらかじめロマンティックな表現に対する期待が大きければ、このポッリーニの音楽性に対して不満を感じるかもしれない。しかし、虚心にこの曲の作られた時代の様式、また12番と24番の変化と連続性を考えると、実に多くのことを考えさせられ、感じさせられる充実した演奏である。こうした演奏が、ポッリーニのきわめて高度なテクニックにより、粒のそろった音、そして構築的な音楽性によってがっちりと支えられていることで、繰り返し味わうにふさわしいCDとなっていると僕は考える。ヴィーン・フィルとモーツァルトの音色の適性については、言うまでもない。

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若者の飲酒、増加

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イタリアの若者の飲酒が増加している(コッリエーレ・デッラ・セーラ、7月3日)。

14歳から17歳の若者で、週に一回はアルコールを摂取するものは、1998年の5,1%から2007年の7%へと増加した。

女性では特に増加が著しく、18-19歳では、1998年の53,7%から60,9%に増加し、20―24歳では、58,4%から63,2%に増加している。

昨年、前政府の健康大臣リヴィア・トゥルコは、アルコール飲料を買える最低年齢を16歳から18歳に引き上げる案を出したが、そのままになってしまった。現政府内でもこの案が検討されている。

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ドラーギ総裁:減税で成長へ

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イタリア銀行総裁マリオ・ドラーギは、労働者および会社に対して減税をする時期だとの認識を明らかにした(7月3日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

下院のDpef (経済財政計画書、Il documento di programmazione economica e finanziaria、5年間の中期的な財政計画 )についてのヒアリングで明らかにした。イタリアの租税負担率は高くなりすぎており、これを下げることが、買い控えに対する対策としても有効との見解を示した。物価上昇と給与値上げの循環は望ましくないというのがドラーギ総裁の考えだ。

また、原油価格の上昇については、「一年前に始まった金融危機の最終幕、第3のフェーズである」との認識を示した。原油価格の上昇については、ジュリオ・トレモンティ経済相は、投機による部分を重視しているが、ドラーギ総裁は、発展途上国の需要増加と生産国の供給との間の緊張関係を重視している。

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2008年7月 3日 (木)

ブルスケッリ、アチェートの記録に迫る

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シエナのパリオで11度目の勝利を獲得した騎手ブルスケッリは、アチェートの持つ記録に迫っている(コッリエーレ・ディ・シエナ、7月3日)。

ルイージ・ブルスケッリ、あだ名はトレッチョリーノ。33回のパリオ出場で、11回の勝利である。3回に1回は勝っている計算になる。

20世紀の最高記録はアチェートの持つ14回。

ブルスケッリは、2005年8月以来、勝利から遠ざかっていた。普通の騎手ならなんでもないことだが、カンポ広場の帝王(Imperatore della Piazza)と呼ばれる男にとっては長いおあずけであった。

トレッチョリーノは、1968年12月27日シエナ生まれで39歳だが、体力的にも鍛え抜かれたところを見せた。

彼のパリオ歴は次の通り。

1990年8月チヴェッタ(フクロウ)地区
1991年7月チヴェッタ
1992年7月チヴェッタ
1992年8月チヴェッタ
1993年8月チヴェッタ
1994年7月ブルーコ(芋虫)
1994年8月イストリチェ(ヤマアラシ)
1995年7月チヴェッタ
1995年8月チヴェッタ
1996年7月オーカ(鵞鳥)クワルネーロ(馬の名前)で優勝
1996年8月オーカ
1997年7月ドラーゴ(竜)
1997年8月キオッチョラ(カタツムリ)
1998年7月オーカ。クイーンズ・ヴィクトルに乗り、優勝
1998年8月オーカ
1999年7月オーカ。ジョーヴェに乗り、優勝
1999年8月チヴェッタ
2000年7月イストリチェ。ガンジェリスに乗り、優勝
2000年9月(2000年は特別パリオと呼ばれる通例の7月、8月以外のパリオが催された)ヴァルディモントーネ(羊)
2001年7月レオコルノ(一角獣)。ウーゴ・サンチェスに乗って落馬するが、優勝
2001年8月アクィラ(鷲)
2002年7月ブルーコ
2002年8月タルトゥーカ(亀)。ベリオに乗って、優勝
2003年7月パンテーラ
2003年8月ブルーコ。ベリオに乗って、優勝
2004年8月タルトゥーカ。アレッサンドラに乗って、優勝
2005年7月ブルーコ。ベリオに乗って、優勝
2005年8月トッレ(塔、象のマーク)ベリオに乗って、優勝
2006年7月イストリチェ
2006年8月タルトゥーカ
2007年7月ブルーコ
2007年8月ヴァルディモントーネ
2008年7月イストリチェ、ジャデルメンヒルに乗って、優勝




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フィレンツェ、ドゥオーモの落書き

Graffiti

日本の学生および教員がドゥオーモに落書きをし、それが日本の二大新聞やテレビのニュースで取り上げられ、教員は解雇されるおそれがある(71日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

この事件に関し、Stile Giapponese (日本のスタイル) Hokusai(北斎)などの著書のある極東の文化・芸術の専門家ジャン・カルロ・カルツァは次のように語っている。

「これらの学生、特に教師は、他国で日本の顔をつぶしたのです。要するに、ホスト国であるイタリアを害したわけで、これは彼らの考え方では受け入れがたいのです」

記者:日本では処罰は、即刻でとても厳しいものですが。なぜこうした反応が起こったのでしょう?

ジャン・カルロ・カルツァ:集団的責任という感情が起こったのだと思います。グループ全体、ひいては国民が、個人の行為に対して責任を感じている。こうしたものの見方は、日本の伝統に深く根ざしていて、中国から受け継いだ孔子の文化(儒教文化)に由来しています。

記者:二つの日刊紙、朝日と読売はイタリア人に謝罪しています。

カルツァ:集団的な罪の意識の当然の帰結ですね。ドゥオーモのクーポラへの落書きは、神聖なものを汚した(sacrilegio)と取られています。

記者:教師に関しては、学生に対してよりずっと厳しいようですが…

カルツァ:先生というものは、日本では、いまだに基準点になっています。先生としてのあるべき役割を破ったことは、余計に罪を重くしたのです。でも他にも…

記者:何ですか?
カルツァ:秋には、東京で多くの美術作品が展示され、多くはフィレンツェのものなんですよ。きっと冷や汗をかいている人がいるに違いないんです…

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ドラーギ総裁、インフレによる購買力の低下を警告

Draghi01g

イタリア銀行のマリオ・ドラーギ総裁は、物価の上昇が激しく、消費者の購買力が低下している事態を警告した(コッリエーレ・デッラ・セーラ、72日)。

ドラーギ総裁は、グローバリゼーション自体は間違っていないが、より公正なルールのシステムに基づかねばならないとしている。

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ティッセン、犠牲者家族に1300万ユーロ

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2007年12月5日から6日かけて生じたティッセンクルップのトリノ工場での労働災害(7名死亡)に関し、1300万ユーロの賠償金が支払われることになった(コッリエーレ・デッラ・セーラ、7月1日)。

ティッセンの理事長、マネージャーなど事故に対する責任問題で被告になっている6人に対する本格的な審理は7月23日から始まる予定。

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イストリチェ、パリオを制す

Istrice_2 7月2日にシエナのカンポ広場で行われたパリオは、イストリチェが勝った。

勝ったのは、イストリチェ(ヤマアラシ)地区で、馬はパリオはデビューのジャ・デル・メンヒル。騎手はジジ・ブルスケッリ。あだ名はトレッチョリーノである。

この騎手は、ベテランで、すでに10回パリオで勝っており、11回目の勝利となった。

イストリチェ(Istrice)にとっては、6年ぶりの勝利となった。

前評判から言うと、本命による大勝利ということになる。スタートから、イストリチェの馬がトップで、そのままカンポ広場を3周し、1着となった。

スタート(mossa)はかなりてこずり、一時間ほどかかった。一度は綱が落とされたが、無効で、もう一度スタートやり直しとなった。

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プロヴァッチャ

Provaccia シエナのカンポ広場で、72日午前9時、第6試走(provaccia)が実施された。

1着はニッキオ(貝)。馬はジョーヴェ・デウス。

6試走は特別にプロヴァッチャと呼ばれる。プロヴァッチャとは「ひどいプローヴァ」という意味だが、何故こう呼ばれるかというと、夕方の本番を控えているので、騎手は馬を本気では走らせないからである。

場合によっては徒歩に近い歩みで、ゆっくりとカンポ広場を回る馬もいる。エネルギーをセーブしているのである。

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パリオ当日の行事

Piazza

72日、パリオ当日の行事を記す。

朝午前7時45分から、カンポ広場のマンジャの塔の真下の礼拝堂で、騎手のミサが行われる。騎手と各地区のカピターノが出席するが、カンポ広場で実施されるので、まわりにはそれ以外のコントラダイオーリ、観光客もいる。

シエナの大司教が来て、執り行うのである。

9時から第6試走。プロヴァッチャという。

10時半、各コントラーダは、パリオで乗る騎手の届け出をする。カピターノがコムーネに届け出るのである。これ以降は、騎手の変更はできない。逆に言えば、第1試走から第6試走の間は、騎手の変更は可能なのである。馬は抽選で決まり、変更はできない。

届け出は騎手の名前およびあだ名(sopranome)を届ける。騎手のあだ名(通称)は、騎手にとっての初パリオの時に決め、その後は変えることはできない。

15時頃 馬の祝福(Benedizione del cavallo

パリオを走る10のコントラーダ、10頭の馬が、各コントラーダ指定の教会で祝福を受ける。祝福を受けるのは、馬と騎手なのだが、馬の祝福という。祝福の間に、馬が自然現象を起こすと、縁起が良いとされている。司祭は最後に「勝って帰れ」(vai e torna vincitore)と言う。

その後、すべてのコントラーダ、17のコントラーダによる時代行列が町を練り歩く。ドゥオーモやサリンベーニ広場を練り歩いて(コースも決まっている)最後にカンポ広場に入る。5時過ぎに入る予定。

19時半、パリオの本番である。

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プローヴァ・ジェネラーレとチェーナ

Prova_generale

7月1日午後7時から、シエナのカンポ広場で、第5試走(prova generale, お芝居でいうゲネプロに相当する言葉)が行われた。

勝ったのは、レオコルノ(一角獣)地区で、イアーダという馬である。騎手はスコンピリオ。

第五試走は、特別にプローヴァ・ジェネラーレという。他の試走と異なり、10頭の馬が走る前に、カラビニエーリの騎馬警官が、隊列を組んで、カンポ広場を走る。特に二周目は、剣を抜いて、前に突き出して疾走する様子は印象的で、広場の群衆も拍手喝采を惜しまなかった。騎馬警官のデモンストレーションは、72日パリオ当日にも実施される。

その後、各コントラーダでは、プローヴァ・ジェネラーレの夕食会(Cena della prova generale)が夜更けまで開かれた。

パリオの季節になると各コントラーダは、さかんに夕食会を催す。しかし最も参加人数が多いのはパリオの前夜に開かれるプローヴァ・ジェネラーレの夕食会である。

各コントラーダ(地区)は、特定の通りを交通をシャットアウトして、椅子と机をならべ、1000人あるいはそれ以上のコントラダイオーロ(コントラーダのメンバー)および旅行者が参加する。コントラーダの夕食会は原則として、お金さえ払えば、旅行者も参加できるのである。

プローヴァ・ジェネラーレの際には、演台がしつらえられて、その台の上にコントラーダの幹部(プリオーレ、カピターノなど)および騎手が並ぶ。騎手とカピターノが入場するときには音楽も高らかに鳴って盛り上がる。

各コントラーダは、国に国家があるように、コントラーダ歌(inno della contrada)を持っていて、それは起立して歌う。そのほか、パリオの歌が自然発生的にあちこちで、とびかう。一人が一節歌うと、集団でその後をつけていき、盛り上がるのである。

プローヴァ・ジェネラーレの際には、普段、他の町に住んでいてシエナおよび自分のコントラーダにご無沙汰している人たちも、自分のルーツを確認するかのように帰ってきて、このプローヴァ・ジェネラーレに参加する。

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2008年7月 2日 (水)

パンテーラの地区会長、公開書簡を発する

Pantera004 パンテーラ地区会長のフランコ・ペーピ(Franco Pepi)は、第一試走の後に起こったアクィラとの衝突に関して、抗議する趣旨の公開書簡を明らかにした(コッリエーレ・ディ・シエナ、7月1日)。

第一試走の後、各地区の馬は、カンポ広場から各地区にある馬屋に帰っていくのだが、バルバレスコ(馬の世話担当責任者)に導かれた馬のあとにコントラダイオーリ(コントラーダのメンバー)がぞろぞろとついて行く。

クヮットロ・カントーニというパンテーラ(豹)地区とアクィラ(鷲)地区の境界に位置する交差点で事件は起こった。

パンテーラの馬のあとにつきしたがっていたのは、幼い子供たちとその母親たちだったが、クヮットロ・カントーニで体格たくましいアクィラの若者に威嚇された(fogata)り、服を引っ張られたりした子供がいたのは遺憾であるという趣旨の公開書簡である。

ペーピは、アクィラには女・子供に攻撃をしようという精神の持ち主は一人もいないと信じると述べている。そして、子供たちが屈託なく楽しめるパリオにしようと結んでいる。

アクィラの地区会長のアレッサンドロ・オルランディーニは、これはあらかじめ計画されたものではなく、カンポ広場で起こった別の事件のため、パンテーラが通過する時間に関して勘違いが生じたのだと説明している。

アクィラとパンテーラは長年の宿敵で、若者同士では殴り合いの喧嘩も一度ならず生じている。そのため、カンポ広場に馬がむかう時、また馬屋に帰るときに関しては、衝突を避けるため、プロトコルが出来上がっているとのことである。                               

                                   

                                 

                                       

                    

                               

                          

                

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2008年7月 1日 (火)

第四試走

Quarta_prova 7月1日午前9時、シエナのカンポ広場で第四試走が実施された。

一着は、アクィラ(鷲)のジョルダン。騎手はパリデ・デ・マウロで、この騎手は初パリオである。

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第三試走、雨のため流れる

Terza_prova 6月30日午後7時に、シエナのカンポ広場で行われる予定だった第三試走(terza prova)は雨のため中止となった。

パリオおよびその直前の試走の時期には、馬が走るコースにはトゥーフォ(tufo, 凝灰岩)と呼ばれる黄色い土が運びこまれる。雨が降ると、これがぬかるんでしまい(写真)、すべるし、危険であるため試走は中止となったのである。

中止の際には、それを知らせる特別の印として、緑色の旗が、パラッツォ・プブリコの窓にかかげられる。

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