« ドラーギ:減税で成長を | トップページ | 『歴史はわれわれ自身だ』 »

2008年6月 3日 (火)

ラカンのスタイルの詩

イタリアで新しい詩人カルロ・カラッバがデビューした(6月1日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

詩集は、Gli anni della pioggia (雨の歳月)(peQuod, 64ページ、7,5ユーロ)。彼は詩人としての声を持っている。しかし声を持っていてもスタイルを持っているとは限らないのだが、彼はその才能に恵まれた。

彼の声は議論をする声である。まるで、日々の考えを書きつけるかのような詩。小さな出来事を記録していき、そこから疑問やふだん見逃してしまうような物事の絡みあった関係への省察がわきおこる。

しかしそれは常に時を通じてのもの。思春期の無心とたくさんの人生を生きた知恵との平衡を保つ時。そしてデ・キリコ風だが、より普通で、より小規模で、家庭的で、なじみやすいメタフィジカルな時。こうした時をカルロ・カラッバのさらさらと流れる詩に感じる。

たとえば、「ローマーパリーローマ」という詩はこう始まる。「あるところから、しばらく/前に、僕はもう戻ったーーそして書く/ どれほど、出会いが/おこるであろうか、そしてどれが/」と続いていく。

カルロ・カラッバは哲学科在籍中で、それが感じられる。それは、ラカンがデカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り」をひっくり返し、フロイトの無意識を用いて「わたしは、わたしが存在しない所で考える、ゆえに、わたしは、わたしが考えていない場所にいる」という言葉を引用しよう。

別の言葉でいえば、すべてが無意識で生じるとしたら、ラカンによれば、「私は、私の思考という玩具になることを余儀なくされたところに存在するところのものを考える」。これは私に次ぎの一節を思い起こさせた。「人生は、われわれが他のものにかまけている時に、われわれに生じるところのものだ」。気がつかない人生というものに言及しているのである。

カルロ・カラッバの詩をよむと、彼はこの気がつかない人生に、いつも耳を傾け、アメリカ先住民のように地面に耳をつけ、遠くの音を聞いているのだと気がつくだろう。

|

« ドラーギ:減税で成長を | トップページ | 『歴史はわれわれ自身だ』 »

コメント

  感動しました! 「・・・あるところから、しばらく/前に、僕はもう戻ったーーそして書く・・・」。詞も良い、訳も良い! とても良い!
 唐突に『輝ける青春』を、とくに二男マッテーオを(分かりやすく言うとアレッシオ・ボーニを)連想しました。すると案の定、「哲学・・・」と。
 カルロ・カラッバ。存じませんでした。さっそく購入しに、駆け出します。読みます。感謝。

投稿: kudotomoko | 2008年6月 3日 (火) 11時03分

kudotomoko 様

お褒めいただき恐縮です。イタリアには、すぐれた現役の現代詩人がおおぜいいますね。もっと紹介されてしかるべきであると考えています。
kudo様のご著書『詩の住む街 イタリア現代詩逍遥』は、その大きな一歩であると認識しておりますが、第二歩、第三歩を大いに期待しております。さらには、それに続く人が輩出し、日本に詩の種(外来種ではありますが)を蒔いてくれるといいですね。僕も何らかの形で、それに貢献できればと、案じているところです。

さて、別件で、プライヴェットなことで申し訳ありませんが、mikotta さんとの連絡方法の確立なのですが、kudo さまがここに投稿していただくときにメールアドレス(任意)という欄がございますよね。そこに、一度だけ、kudo さまのメールアドレスをお書き込みいただいて、コメントを投稿いただきましたら、それは公開はされませんが、管理人(panterino)には見えるしくみですので、それを mikotta さんにお渡しすることが出来ます。もちろん、kudo さまにご異存がなければのお話なのですが。


投稿: panterino | 2008年6月 3日 (火) 16時26分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/144339/41411078

この記事へのトラックバック一覧です: ラカンのスタイルの詩:

« ドラーギ:減税で成長を | トップページ | 『歴史はわれわれ自身だ』 »