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2008年4月 5日 (土)

スカラ座の《マクベス》不成功

Macbeth001 スカラ座の《マクベス》の初日は不成功だった(4月3日、コッリエーレ・デッラ・セーラ)。

イギリスの演出家グレアム・ヴィックによる装置は、(数年前に)はじめて舞台にかけられたときに、大いに議論をよんだが、ほとんどはむなしいものだった。美術監督はマリア・ビョルンソン。

舞台は巨大な立方体で占められ、これが一つの頂点を中心に回るのだが、反対側は空いている。

ダンカンの暗殺はそこでなされるのだが、観客からは見えず、合唱や他の登場人物が外で悪態をつく。これは見物である。

しかし、見物なのはこれだけだとだれが想像したろう。音楽は、ハンガーをはずした衣服のようにグニャグニャになってしまった。

欠点を分析的に列挙する。この《マクベス》は、演劇的ー音楽的観点から根本的なもの、ヴェルディが《演劇的言葉》と定義したもの、言葉や同じシラブルでも、それを掘り下げることが欠けている。というのも、この意味でヴェルディが特別に豊かな発明をしたからだ。そのことをヴェルディや深く心にとめていたので、スコアには、とりつかれたように、声の発し方、望ましい声の表情、解釈の様式についての指示がちりばめられている。

この解釈の様式は、指揮者大野和士によって無視されてしまった。彼は、ちょっと気取って、完璧な音作りをすることにのみ専心しているように見える。だから、オーケストラを《演劇的な言葉》に従属させることはしない。

反対に、美しい音を得るために、声を凌駕してしまい、もともと欠点のあるヴィオレタ・ウルマーナ(マクベス夫人)や男性合唱の朗唱が何を言っているのかわからなくしてしまう。指揮者は、練習においては、朗唱の表情づけのコーディネーターであり、演奏においては、中心的な推進者兼緊張の管理人であるべきだろう。

本当に素晴らしかったのは、バレエと合唱の〈しいたげられた祖国〉で、これは切り離されたカンタータのように歌われた。

こういう人もいるだろう。要するに、彼は日本人なのだ、彼が悪いんじゃない。たしかにその通り、ではなぜ彼が呼ばれたのか?大野が昨年、ショスタコーヴィッチの《マクベス夫人》をスカラ座でかなりうまく振ったから、そこからの連想でとは思いたくない。

ヴィオレタ・ウルマーナは、このオペラがまるで純粋なベルカント・オペラであるかのように解釈しようとしている。その観点からすると、彼女のシのフラット、シ、ドのフラットは絞り出すような音になっていたし、低音部は他の領域と音色がそろっていなかった。彼女に与えられたもっとも重要な場面は、いわゆる夢遊病の修羅場である。彼女は本当に夢遊病のように甘美に、まるでロマンスのように歌ったが、最後のレのフラットは最悪だった。

バリトンのイヴァン・インヴェラルディは、一幕が終わったところで、レオ・ヌッチが具合悪くなり、急遽代役で登場した。彼の声がまだ発展途上であると良いが、そうであるとしたら、レナート・ブルゾンのへたな真似はよした方が良い。

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