『オテッロ』
日本で観るのとは異なった印象をいくつか持ったので記す。
ニューヨークは、他のアメリカの都市とくらべて、黒人が比較的おおいのであるが、メトロポリタン歌劇場の観客は、ほとんど白人ばかりである。たまに、われわれ東洋人をみかけるだけだ。黒人は3日間劇場に通って1人しか見かけなかった。
この上演でオテッロを演じたのは Johan Botha で、慣習どおり顔は黒く塗っていた。彼自身は南アフリカの出身だが、普段の顔からすると白人であろう。
今回は、オテッロが皮膚の色が他の登場人物と異なることが、オテッロの孤独、イアーゴにそそのかされたとは言え、常識ではありえない思考回路に彷徨いこんだことに大きく関与しているのではないか、と思わされた。
Botha(写真)は巨漢で、デズデーモナを演じたルネ・フレミングも決して華奢ではないのに、並ぶと可憐に見えるほどであった。しかし、なんとも言えない孤立感を僕は感じ取った。それは東京とは異なり、ニューヨークでは、僕自身が異邦人、異人種であることを意識せざるをえないことも、多少は関わりがあるかもしれない。
もう一つ今までに感じたことのなかったことは、ボタとフレミングの体格の差のせいもあるのかもしれないが、この二人はもちろん夫婦なのであるが、心理劇としては、父娘的なところもあると思った。これは、原作のシェイクスピアの『オセロ』が、この時代、女優がおらず、女性の役は、声変わり前の少年俳優が演じていたので、男性の役柄は、性格が描きこまれるのに対し、女性の役柄は性格描写が表面的であるといった事情も反映しているだろう。女性の性格づけが薄い、あるいは幼い感じがするのだ。
つまり、オテッロは性格、心理が描き混まれるのに対し、デズデーモナは柳の歌やアヴェ・マリアなど一部を除けば、独立した人物像という面もあるのだが、オテッロの付属的なところがあるのだ。
オテッロはデズデーモナがこうであらねばならぬ、と考えていて、そう考えることには疑問を持っていないところが、現代の夫婦像とは決定的に違うところだろう。
現代の目から見て、父娘的だと感じたのは、現代においても、父から娘への愛情は一方的であらざるをえないからだ。ほとんど、相手の実情とはおかまいなしで、勘違い、見当違いなことも多いのであろうが、その愛情はまた打算的なものではないという特徴もある。
オテッロのデズデモーナへの情愛に似ているところもあるのではないだろうか。
イアーゴはベテランのカルロ・グエルフィ。性格を巧みに色づけ、声の衰えをカバーしていた。
デズデモーナが死ぬ場面は、演劇的に圧巻であった。とんでもないことが目の前で起こっている衝撃を受けた。ルネ・フレミングは、息絶えたまま、舞台上の階段に横たわって不動の姿勢をとりつづけた。
演奏として、過去の名演やレコードをしのぐものとは言えないだろうが、劇場の経験は観る者に、様々なことを感じさせてくれるものだと改めて思った次第である。
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