『椿姫』
ゼッフィレッリの舞台が素晴らしかった。長年、使われているものだが、オーソドックスで納得のいくものだ。
『椿姫』はもともと、娼婦をオペラの舞台にあげるという挑発的な面を持っているので、現代的、ダイナミックな舞台も可能性を持っていると思うが、ゼッフィレッリのような舞台もまた豪華でよい。
劇場まで足を運んで、テレビの歌番組以下のちゃちなセットだとがっかりしてしまうのがごく普通の観客の反応である。
ゼッフィレッリの舞台は、2幕2場でアルフレードが怒りまくってヴィオレッタを侮辱し、賭けをする場面では、フェッリーニの映画(のセット)を思わせる仕掛けがあちこちにあった。
ヴィオレッタはアン・スウェンソン。声は出るのだが、イタリア語の発音が聞き取りにくい。メトロポリタン歌劇場の椅子の背中には小さな液晶画面があって、スイッチを入れると英語字幕が出る。残念ながらイタリア語字幕は出ない(スカラ座の椅子は、数カ国語から選べるようになっていた)。
アメリカというのは、他民族国家であるが、案外、多言語国家ではない。スペイン語だけは、テレビでも放送が簡単にみられ特別だが、ニューヨークのような大都会でも、ボストンのようなインテリの多い都会でも、イタリアの新聞を買うのはとても難しい。ヨーロッパに行くと、たとえばアイルランドの小都市でも、イタリアの新聞は買えるのである(EU圏内ということが大きいのかもしれないが)。
アルフレードは、マシュー・ポレンツァーニ。この台本では、どうもアルフレードは思慮に欠けた男にしか見えない。別に歌手が悪いわけではないのだが。パードレ・ジェルモン(アルフレードの父)は、ドウェイン・クロフトで、なかなか良かった。特に前半が良く、ヴェルディらしい品格のある歌を聴かせてくれた。この役は、父としての情愛と、ブルジョワジーの偽善性の両面を表しており、力点の置き方で、表情づけが変わってくるだろう。歌手としても、歌いがいがある、表現のしがいのある役柄であり、また解釈のむずかしい役柄と言えよう。クロフトは全体として健闘していたが、ヴィオレッタとの二重唱での後半でなぜか調子が崩れたようにも聞こえた。
アルミリアートの指揮は、つぼを心得た説得力のあるもので、心地よかった。オーソドックスな舞台とマッチしたオーソドックスな音楽を奏でていた。
この歌劇も芝居としてみると、第一幕ではアルフレードとヴィオレッタの出会いがあり、高級娼婦でありながら、純愛の可能性をさぐるというスリリングかつ逆説的なストーリーが展開する。しかし、2幕になるとアルフレードは、ある意味で文脈を踏み外してばかりいて、人間的な対峙をするのは、ヴィオレッタとパードレ・ジェルモンである。この二人は義理の父娘になる可能性をはらみながら、パードレ・ジェルモンがそれを拒絶し、それどころかヴィオレッタにアルフレードとの別離を迫る。しかも、そこに家族の愛を導入して、諄々と説いてきかせるところが、いやらしいと言えばいやらしいところである。
アルフレードへのひたむきな愛を、アルフレードの父によって断念させられる、ここがこの劇の最大のドラマに見える。主人公ヴィオレッタにとって、最大の方向転換になるわけだ。
演技は、みな水準以上で、ストーリーのなかにすっと入っていけるものだった。思えば、ニューヨークの真ん中で、イタリア・オペラをこれだけの水準で日常的に演奏しているということ自体が、すごいことだと思った。
つまり、イタリアで、イタリア・オペラを演じているのとは、いろいろな意味で困難さが異なるわけだから。富の集積の桁違いなニューヨークならではの快挙なのだろう。観客は、この日も年配の白人が中心だった。
もう一つ気がついたことは、プログラムの充実である。入場者には無料で配布される。リーダース・ダイジェストぐらいの判型で大きくはないが、かえって持ち運びには便利だ。作品解説、あらすじ、演奏者紹介、プロダクションの解説、どれも簡潔にして要を得ている。
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