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2007年11月15日 (木)

郷富佐子著『バチカン』

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郷富佐子著『バチカン』(岩波新書)を読んだ。

副題は、「ローマ法王庁は、いま」とある。大変興味深い本だ。そこに盛り込まれた情報も充実している。郷富佐子氏は、朝日新聞の記者で、ローマ特派員だったが、当時から彼女の書く特集記事は、日本のイタリア関係者の間でもしばしば評判となっていた。

しかしながら、新聞のコラムはスペースが限られている。このたび新書という形で、特派員時代の記事と同じ内容も含まれているが、それをはるかに上回る情報量を持つ本書が登場した。

郷氏ならではの情報は、ヴァティカンの記者クラブに関するもの。あるいは、ヴァティカンにはヴァティカニスタとよばれる番記者がいるのだが、しかもその人達は、何年、何十年にもわたってヴァティカニスタをつとめるのである。彼らのヴァティカンでの生態も、そこに所属した人ならではの貴重な証言と言えよう。

全体として見ると、副題にあるように、現在の法王庁を中心に記述はすすむ。主としてジョヴァンニ・パオロ2世(ヨハネ・パウロ2世)と現法王のベネデット16世(ベネディクト16世)の言動、そしてそれが引き起こした影響や波紋についてジャーナリスティックな記述で、スピード感をもって読み進めることができる。

2章では、バチカン小史もあるので、簡潔ながら、入門としてはわかりやすい形で、バチカンの歴史に触れることができる。当然だが、バチカンの歴史は2000年におよぶもので、それを新書のしかも1章で語りつくせるはずもない。著者もそのことは100も承知で、むしろエピソードから歴史の厚みが垣間みられるように、という工夫が見える。

だが、僕は、この本の最大の長所は、バチカンが国家で、政策、戦略をもって外交や政治、イタリア政治への影響力の行使を行っているというイタリア人なら誰でも知っている事実を、実にわかりやすく、具体的なエピソードを通じて記述していることだ。

国家には、内政や外交があり、財政問題があり、政策や戦略があるというのは、当たり前すぎるくらい当たり前のことであるが、バチカンの場合、カトリックの総本山であるという性格も持っているため、一般の日本人には、国家としての性格が捉えにくくなってしまっているように思えるし、ローマ法王(教皇)についても、その国家の首長であるという性格が、日本の言説のなかでは、見えにくくなっていたと思う。

郷氏の著書では、そこが新聞記者らしく、さまざまな社会問題(たとえば事実婚)に対し、ヴァティカンはどういった方針を持っているのか、その方針を実現するためにどう振る舞ったのかを、観念的にではなく、事実に即して、スピード感をもって、臨場感たっぷりの描写がなされる。

郷氏の眼で見たバチカンが、率直に語られていて、先入観で眼がくもっていることがない。バチカン公会議に関しては、著者の意見、大胆な提言(第三バチカン公会議開催の必要性)もある。一つだけ無い物ねだりを言わせてもらうと、法王の代替わりの章で、現在のベネデット16世が選出されるにあたっては、オプス・デイという修道会の影響力が強かったとされているが、修道会の勢力図や派閥関係については、本書では触れられていない。イタリア人があつまるとすぐに派閥ができると言われている。バチカンも比率としてはイタリア人が多い組織である。たとえば、かつては、イエズス会の影響力が強かった時期もあったのだろうし、現在は、オプス・デイの影響力が強いとも言われている。そういった記述を期待したいところであったが、新書という器では、スペースが足りなかったのかもしれない。

全体としては、久々に、とても充実した新書を読んだ、という感想を持った。

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コメント

宗教についてはあまり語りたくないというのが日本人の特徴のようです。私の日本の知人ではっきりと「私はXXの信者」という人は見たことがありません。ところが外国に住んでみるとそれは実に特殊な状況なのだと思い知らされます。私が住むイタリアの知人は皆「カトリック信者」と言います。(その後で大体の人が「実践=ミサに通う、秘蹟を行う、は行っていない」と付け加えるが)それは長い歴史を持つカトリック教会がイタリア領土にいかに多大な影響を及ぼしたかを示していると思います。しかし、キリスト教は政教分離を方針に世俗国家と教会を分離させてきたわけで、なぜに教会側も国家として成立しなければならないか。上記にもあるように日本人としての私には非常に理解が難しいです。私の知人達のように「神は信じるが教会は信じない」というイタリア人がいることからも分かるように、純粋な一宗教団体として存在する方が、人々の心をひきつけるあるいは信用を得るのではないかと日本人の私は単純に考えてしまうわけです。

投稿: 在伊日本人 | 2009年5月10日 (日) 18時34分

在伊日本人さん

大変興味深い問題ですね。たしかに、日本人は、自分の属する(あるいは自分の家の墓がある)宗派を積極的に語ることは少ないですね。

それには大きくわけて二つの理由があるのではないかと、僕は考えています。一つは、日本において、徳川幕府によって、宗教の力が骨抜きにされたこと。諸宗派を、幕府によって統制のきく存在にしたかったのだと思います。

それに対し、ヨーロッパでは、ドイツでもイタリアでもキリスト教民主党などがあったわけで、政教分離は、実際には、国によって進んだところ(フランスなど)と、あまり進まなかったところがあるように思います。

もう一つは、日本人の多くが、西洋人が信じるような形では、宗派の教義を学びそれを信じている人が少ないということがあると思います。漠然と、神社やお寺には参拝するものの、イタリアにおける教会のように初聖体の前に教会に通い、学校でも宗教の時間が週一回あり、聖書やその内容をカテキズムという形で体系的に学ぶという体験は、日本人の場合、例外的あるいは少数派と言えましょう。

同じヨーロッパでも、フランスとイタリアでは、世俗性、教会と政府の分離度が異なるので、イタリアはヴァティカンがローマの中にあるという特殊性を抱えていることが、大きな特徴なのだと思います。

投稿: panterino | 2009年5月10日 (日) 22時50分

1つ誤解をしていたことがありました。政教分離という言葉の意味です。私は長らく宗教から全く影響を受けずに政治を執り行うことであると捉えていたのですが、イタリアにおいてはどうやら違うらしい。聖職についていない一般信徒が教会組織とは別に政治職について民衆を正しい方向に導こうとするという解釈もあり得るのだとある論文で知りました。だからイタリアの政治家が「私はカトリック信者である」と胸をはっても何ら問題はないのです。それをどうしてもあると考えてしまう私は日本人です。日本の宗教のあり方についてはおっしゃる通りだと思います。特に戦後GHQにより国家神道と国の政治が分離されたことにより、宗教が政治に関わってはいけない、よくないことになる、というような何か宗教に対する否定的なイメージが培われてきたように思います。それゆえにこの国に住んでいるとどうしても違和感を感じてしまうのです。よその国に住むということはその国と自分の国との違いを確認し、自分が何者であるかを再発見するということだと最近つくづく思います。イタリア人と日本人はなぜここまで違うのか。少々疲れてきた感もありますが、これからもがんばって(?)「考察」を続けていこうと思います。

投稿: 在伊日本人 | 2009年5月11日 (月) 06時27分

在伊日本人さん

おっしゃる通り、この問題は、簡単には尽きない奥深い問いだと思います。

イタリアの場合、90%以上がカトリックなのですから、カトリックだということは、特に問題にならないのはおっしゃる通りですが、政治家について religioso か laico かというのは、単に宗教色があるか、世俗的か、というのでは訳しきれないニュアンスがあって、たとえば、人工授精やその他、ヴァティカンが強い関心を抱いている問題に関して、原則としてヴァティカンの見解にしたがうという人が religioso と呼ばれているのではないでしょうか。

そして選挙民も、人によっては、 religioso である候補者を、積極的に選んでいるのだと思います。

投稿: panterino | 2009年5月11日 (月) 18時36分

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