イタリア系アメリカ人カペッキがノーベル賞
イタリア系アメリカ人のマリオ・カペッキ氏がノーベル賞を受賞した(コリエレ・デッラ・セーラ、10月9日)。
受賞理由は、遺伝子操作をしたマウスを作りだす技術を確立したことで、この技術により各遺伝子の働き方の解明が期待される。
カペッキ博士は70歳になったところだが、1946年以来アメリカに住んでいる。このノーベル医学生理学賞受賞はイギリス人のマーティン・エヴァンス(76歳)、アメリカ人オリヴァ・スミジーズ(82歳)との共同受賞。
カペッキ博士とその母の生涯が話題になっている。そもそも博士の母方の祖母Lucy Dodd-Ramberg はポートランドの裕福な画家であった。母Lucy Jr. は15カ国語を話す詩人、作家であった。祖父Walter Ramberg はドイツの高名な考古学者。叔父Edward は物理学の権威、曾祖父Dodd は中国や日本との貿易で巨万の富を得た人物である。
カペッキはヴェローナで1937年10月6日に生まれた。父親ルチャーノ・カペッキは士官でファシストだった。「彼らは一目惚れだったが、私の母は、幸い結婚はしなかった」とカペッキ。父は飛行士として戦死。母は、ソルボンヌで文学を教えていたが、フランスの反ファシストグループに参加。
1941年、イタリアの北部アルト・アディジェ州で3歳半のマリオと暮らしていたところ、母はゲシュタポに逮捕され、ミュンヘン郊外のダッハウ強制収容所にいれられた。母は3歳半のマリオを、持ち物すべてを処分したお金を差し出して地元の農家にあずけた。
最初の数年は平安だった。がある日、母の預けたお金がつき、農家を追い出された。5歳で路上生活者となったのである。
4年間の放浪生活の後、熱と栄養失調のためレッジョ・エミリアのカトリック系の病院に収容される。そこで与えられたのは、毎日、一杯のコーヒーと一片のパンだけだった。逃げ出したいと思ったが、不可能だった。夜は裸で、マットレスの上に、毛布なしで寝かされていた。
こうした状態のなか、この間にアメリカ軍によって解放された母は一年間マリオ少年を捜し続け、9歳の誕生日に彼を見つけ出した。「私にチロル風の服、羽のついた帽子を買ってくれました。これはいまでもタンスにとっておいてあります」
数週間後、母子はアメリカに赴く。フィラデンフィア近郊には、母の兄弟 Edward Rambergがいたが、彼は物理学者で、その研究は、顕微鏡やカラーテレビの発達に貢献した。
「そこはフィラデルフィア近郊で、65家族が住むユートピア的なコミュニティーでした。叔父たちがそのコミュニティーの創設者で、私は英語が話せず、一度も学校に行ったことがなかったのですが、小学校三年に登録してくれました」。
唯一残念なことは、受賞の喜びを母と分ちあうことが出来ないことだ。「ダッハウ(収容所)から帰ってきたときは、見る影もなかった。そのトラウマを克服することは、1989年にアリゾナで亡くなるまでなかったし、その亡霊にとりつかれていました」。
| 固定リンク
コメント